『ハイデガー『存在と時間』の構築』
『ハイデガー『存在と時間』の構築』木田元、岩波現代文庫
なんか、同じようなことをずっと書いておられるのではないか…という気もしないわけではありませんが、ありがたい説教は何回聴いても良いということで、木田先生のハイデガー論を拾い読みを続けています。
今回は、実は上巻として刊行された、現在の『存在と時間』が、もし完成されていたらどのような本になっていたのか、というのを木田先生が想像して再構成したといいますか、これもまた途中で放棄されてはいますが1927年にマ-ルブルク大学で行なったハイデガーの講義『現象学の根本問題』を元に、バラバラになったパーツを組み直してみました、という感じの本です。
『存在と時間』Sein und Zeitというと、なんか近寄りがたい感じも受けるし、実際、岩波文庫で読んでもチンプンカンプンでしたが、英語訳のBeing and Timeだとなんとかついていけそうな感じにもなります。そんな風に「なんとか分る感じがしないでもない」ぐらいまでにしてくれるのが木田先生の偉いところ。この後『ハイデガーの思想』(岩波新書)も読んでいるのですが、それが終わったら、木田先生お勧めの細谷貞雄訳で『存在と時間』をもう一度ぐらい読んでもいいかな、と思っています(細谷訳ハイデガー選集として刊行されましたが現在はちくま学芸文庫に入っています)。
構成は第一章『存在と時間』既刊部の内容、第二章『存在と時間』本論の再構築、第三章『存在と時間』第二部の再構築、終章『存在と時間』以後と実にシステマチック。
こんなことを言いたいのかな…といことを自分なりに要約しますと、実存哲学だと思われている『存在と時間』は、実は『存在論史』のような哲学史の本で、西洋哲学そのものである形而上学的思考の限界を書きたかったのではないかと思います(とはいっても「不安が無をあらわにする」「(不安の)際立った開示性」「(不安のうちでこそ世界が世界として)根源的かつ直接的に開示される」みたいな実に印象的なというか実存主義的なフレーズもあるのですが pp.60-61)。
とにかく『存在と時間』でひっかかりまくっていた「現存在」とか「世界内存在」とか「存在了解」という概念が生物学的な知見から来ているということを木田先生何回も書いてくれたおかげで、なんとか引き寄せて理解できるようになっただけでもありがたいですが(高次のシンボル体系に適応して生きる生き方が世界内存在、みたいな)、この『ハイデガー『存在と時間』の構築』では「時間性」に関しても木田先生流の理解ができるようになったと思います。
例えば、以下みたいなところ。
<おのれを時間化するsich zeitigen>働きによって現在・過去・未来という時間の次元が開かれ、<世界>というシンボル体系が構築される(p.125)
時間性は本来的にも生起する。第一章でも見たように、おのれの本来的な全体存在可能を気にかける現存在にあっては、将来はおのれの死への「先駆的覚悟性」として、既存おのれの事実的被投性の反復として、そして現在はおのれの置かれた歴史的状況を豁然と直視する「瞬間」として生起する。ここでは、将来・既存・現在という脱自態が緊密に連関しあい、将来が圧倒的な優位に立つ。
あと、
ヘルマンは、ハイデッガーの後継者といったかたちでフライブルク大学の教授になったり、『ハイデガー全集』の編集でも中心的役割を果たしたりしているが、論文を読んでみても『全集』編集の手際をみてもいかにも頭の悪そうな人物である。
なんていうとこは笑わせてもらいました。
最後に、岩波だからあえて書かせてもらいますがp.152の《デカルトは付けたり》は《デカルトは付けたし》じゃないのかな…。
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 『第二幕』望海風斗(2023.09.26)
- 『アメリカ政治』岡山裕、前嶋和弘(2023.09.26)
- 『シリーズ歴史総合を学ぶ3 世界史とは何か 「歴史実践」のために』(2023.09.23)
- 『戦後日本政治史 占領期から「ネオ55年体制」まで』(2023.09.23)
- 『エチカ』スピノザ、上野修訳、岩波書店(2023.09.23)
Comments
「付けたり」という言葉、使われているのを見たことがあった気がしたので、引いてみました。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C9%D5%A4%B1%A4%BF%A4%EA&kind=jn&mode=0&kwassist=0
木田元さんはどちらのご出身なのかな...
Posted by: pleo | June 02, 2008 01:10 PM
pleoさん、どーも。おお「付けたり」って、そういう言い方あるんですか!知りませんでしたが、読みやすくするためには、ここは「付けたし」じゃないのかな…。時々、木田先生は難しい漢字とかお使いになるんで、これもクセなのかもしれませんね(他の箇所では今んとこ気づきませんが…)。
ちなみに、木田先生は新潟県が本籍のようですが、父の木田清氏は山形県戸澤藩の家老の血筋で、戦後は請われて新庄市長をつとめていたそうです。今でも地元で「木田先生」といえば、父の清氏のことを指す、みたいなのをどこかで読んだことあります。
Posted by: pata | June 02, 2008 01:24 PM