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April 23, 2008

『イエス最後の一週間 マルコ福音書による受難物語』

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『イエス最後の一週間 マルコ福音書による受難物語』J.D.クロッサン、M.J.ボーグ(著), 浅野淳博(訳) 、教文館

 メル=マッドマックス=ギブソンの監督作品『パッション』のリアクションなんでしょうね。学問とジャーナリズムの中間ぐらいの地点で頑張っている新約聖書業界のトリックスターであるクロッサンとボーグが共著で受難物語を、しかもマルコに寄り添って解釈していくという本です。

 以下、箇条書きで

1)《ダビデとソロモンの統治下、力と富はエルサレムに集中し始めました。ある意味においてソロモンは新たなファラオとなり、エジプトがイスラエルにおいて再生されたのです》(p.30)

 ここの言い切りは良かったですね。「ある意味においてソロモンは新たなファラオ」。歴史は二度繰り返すということなら、「ある意味において今のイスラエルは新たなナチス」ともいえるかもしれませんが、そこまで書けなかったのは英語圏だからでしょうか。

2)五千人給食の場面について二人は《この給食物語の主題は、超常的な増殖ではなく平等な配食にあります。神の正義を具現化するイエスの手を通ると、分配に不平等という澱みはなく、食物は十分あるのです。すなわちこれは、富の公正な再分配が実現する神の王国を象徴する物語なのです》(p.184)という言い方は前半は素晴らしいけど、後半はつまらなさすぎる議論だと感じますな。食物は十分あるのに配れないということの問題を金持ちの貪欲に求めれば解決するというのは単式簿記的な浅はかさだな、と。

3)バラバの釈放に関して後の《ユダヤ戦争勃発は、大衆がイエスの道ではなくバラバに代表される道を選んだことを意味します》(p.221)というのも新しい指摘だと感じました。

4)一週間をずっと描いているマルコで、唯一、詳細に欠けているのが土曜日。マルコは飛ばしているのですが、使徒信条では「陰府に下り」となっています(ニケア信条ではさらにカットされてはいますが)。なぜ省かれているのか、という問題を設定し、その理由については、クロッサンお得意の『ペトロによる福音書』 を重視する立場から、陰府からのイエスによる殉教者などの奪還というテーマが写実的なマルコに合わなかったから省かれたのだ、という言いたいようです。

5)マルコやQ資料ほど重要ではないにしろ『ペトロによる福音書』を重視するにはやぶさかではありませんが、とにかくもっといわゆる「偽典」の研究が進められるべきだと思います。「偽典」というのは当時の人々の思考実験だった、といえるかもしれない、と今回、この本を読みながら感じていました。

6)そういった立場なら、お二人のように実際に復活があったかどうかということはカッコに入れておいて、その意味は何なんだろうと考えるという問題設定の仕方は少なくとも「あり」だと感じました。

 もっと書くかもしれませんが、とりあえず今日は…。

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