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February 06, 2008

『旧約聖書の誕生』

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『旧約聖書の誕生』加藤隆、筑摩書房

 加藤隆先生といえば新約学が専門で、これまでも上梓してきたのも『『新約聖書』の誕生』 (講談社選書メチエ) 、『福音書=四つの物語』(同)、 『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』 (講談社現代新書)、『新約聖書はなぜギリシア語で書かれたか』(大修館書店)、『『新約聖書』の「たとえ」を解く 』(ちくま新書)など新約関係の著書ばかり。

 それがいきなり『旧約聖書の誕生』と旧約聖書のことについて、しかもかなり本格的な入門書を書かれたというのを知った時には驚きました。保守的なアカデミズムといいますか、学者的にはちょっとあり得ないというか、なんといいますか有機化学の先生が無機化学の教科書を書いてしまうぐらいの衝撃。思い切ったことをやるものだ…と思いましたが、ファンですので読み進めたんですが、面白い!

 なぜ新約学の先生が旧約について書くのか、ということに関しては、あとがきで詳しく説明されています。ストラスブールで新約聖書学を学んだとき、イスラエル民族の歴史の展開にしたがって読むというメソッドを教えてもらった、と。また、日本の千葉大学で教えている中で、本職の新約学だけでなく、旧約や教会史などの講義も受け持たなければならず、勉強を進められた、と。こうした経緯もあって、自分なりに深めてこられた旧約聖書に関する考えをまとめてみよう、ということになったんだと思います。

 さらに、重要な指摘もなさっています。それは、なぜヘブライ語の旧約聖書がまとめられ、それが権威を持つようになったのか。また、旧約聖書のギリシア語訳である『七十人訳』がなぜヘブライ語で書かれた聖書と並ぶような権威を持つようになったのか、という疑問に対する答えです。

 ぼくは旧約に関しては一度だけしか通しで読んだことはありませんし、非常につまらないと感じて、その後もあまり旧約に関する本は読んできませんでした。ですから、必ずしも力強く言えないのですが、アケメネス朝ペルシャは本格的な帝国であり、ある程度、民族的な自治を認めるという高度な統治方法を採ったので、アケメネス朝ペルシャの行政長官であったエズラをつかって、自分たちなりの法律をつくらせたという意図がモーセ五書の成立の背景にある(p.248-)という指摘は新鮮でした。

 また、書によっては、よほどヘブライ語聖書よりも重要だと思う『七十人訳』聖書に関しても、これまた本格的な帝国であったプトレマイオス朝エジプト(ちなみに支配者はギリシア人)が、同じように諸民族を支配するため、それぞれの行動原理を当局に提出させ、それを守らせたということがあったのではないかと指摘しています。といいますか、『七十人訳』の成立を説明している『アリステアス書簡』の背景はこう読めるのではないか、という感じ。

 ですから、ヘブライ語聖書も『七十人訳』聖書も、どちらも巨大な帝国がバックにあったから、その被支配者であったユダヤ人たちにとって権威を持ったのではないか、と。しかも、編集作業自体はユダヤ人たち自身の手によって行われたわけですから自縄自縛といいますかダブルバインドの支配力を持ったのではないか、というわけです。

 ハッとさせられるような指摘でしょ?

 同じストラスブールでトロクメ教授から新約聖書学を学んだ田川建三さんが(著書を読む限りとてもお二人がトロクメ教授の兄弟弟子とは思えないのですがw)『書物としての新約聖書』の中で、新約聖書が成立したのは、異端として排斥されたマルキオン派がルカとパウロ文書を中心に正典をまとめたことに対抗したからだと説明していましたが、それと同じぐらいの面白さですね。

 にしても、トロクメ教授も幅広い研究をなさってきましたが、そうした姿勢がお二人に伝わり、普遍としてのヨーロッパを理解する鍵のひとつなる新約、旧約聖書に関して、抹香臭くない本が読めるというのはありがたい限りです。また、聖書をテキストとして読むんだ、という合理的な姿勢もお二人からキッチリ伝わってきます。

 加藤先生も優しい雰囲気ながらも《「聖書」は、ユダヤ教的に言うならば「律法」である。したがって聖書中心主義は、律法中心主義と言い換えることができる。「聖書中心主義」「律法中心主義」は、神をないがしろにして成り立つ立場である。このような神をないがしろにして「律法」を絶対視するのはやめようじゃないかと主張した最大の人物はイエスである》(p.429)なんてことをぶっちゃけているとこがいいですね。

 何回も書きますが、ぼく自身も旧約があまり好きではないので、本も大量に読んでいるわけではないのですが、乏しい読書量ながらも、これまで旧約に関する本の中では一番、読み応えがありましたし、面白かったですね。

 最後に少し閑話休題しますが、旧約聖書を通して読んだ方は、コーランを読んだ方よりは多いとは思いますが、本当に少ないと思います。当てずっぽうですが、全キリスト教徒の1%もいないんじゃないですかね…。

 理由は1)今では誰も守らないような古代の掟に関して長々と書き連ねているレビ記や民数記、単に宗教的感情に酔っぱらっているだけのように感じる詩編のようにつまらないテキストが多い2)福音書のイエスの言葉のような心情に訴えるようなテキストがない3)大量虐殺の場面や親殺し、子殺し、兄弟殺しなど反感を買う記述が多すぎるーなんてことが考えられると思います。

 モーセが神への罪ゆえに仲間内で殺し合わせるところなんか、実際、読んでいて吐き気しましたもんね。「こんなもんはユダヤ教徒とイスラム教徒に読ませておけばいい」と思いつつも(あ、単なるエスニック・ジョークですんで軽くうけながしてくださいよ)、まあ、ごく普通にカトリックもプロテスタントも、ほとんどの信者が読んでもいない旧約聖書を聖典としているのはおかしい限りだな、と思います。

 あと1000年ぐらいしたら、キリスト教徒は旧約聖書を捨てる可能性も出てくると思うんですけど、それでも、まあ、いまの時点では聖書なので捨てるということはちょっと考えられないかな…。ミサなどで読まれる分量は確実に減っていくんじゃないかと思うんですけどねぇ…。

 実際にアメリカあたりでは、アブラハムがイサクを神への生け贄にするために殺そうとするような箇所は「気色悪い」とばかりに、あまり教会でも読まれなくなったとチラッと聞いたことがあります。さもありなん、と思うんですがね。個人的に旧約聖書に関しては、出エジプト記やヨシュア記で描かれているむき出しの暴力に驚いたのと、「空の空、空の空なるかな」というコヘレトの言葉はまあいいかなと思ったのと、マカバイ記が読み物としては上出来だなと感じたぐらいですかね。

 大部な本なので、また、何か書き足すことがあると思いますが、とにかくお勧めです。西洋史や哲学などをやっていて、旧約に関してもざっくりと全体像を掴んでおきたい、というような研究者の方々なんかには、特にお勧めですね。

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