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February 14, 2008

『旧約聖書の誕生』感想の続編

 前回、書こうかな…と思っていてやめていた箇所がありました。

 それを今回はちょっとだけ引用してみようと思います。114頁からの箇所なんですが、(中略)とか入れると雰囲気が壊れますんで、あえていれません。加藤先生には申し訳ないのですが、アレンジさせていただきます。姦淫の妻をもった預言者ホセアに関する解説の中の文章です。

   愛とは何か。

 愛とは捨てないことと言うことができる。愛は関係のあり方にかかわっている。関係が問題となる以上、相手がいる。相手に価値があるならば、その相手と関係をもつ上で愛は特に必要ではない。

 しかし相手に価値がない場合、関係を成立させ維持するほどの価値が相手にない場合はどうだろうか。こうした場合は、相手と関係をもたない、相手との関係を断つ、ということになり、これは合理的なことである。しかしそれでも相手を捨てないとしたどうだろうか。本来ならば捨てて然るべき相手を捨てないのである。これは異常なことであり、これは「愛しているからだ」と言わざるを得ないことになる。

 恋愛の関係を例にして考えてみよう。相手のことが気に入って、いつも一緒にいる。これは「恋している」のであって、右のような意味での「愛」ではない。相手のことが気に入っているのだから、相手に価値があり、その価値に相応の態度を取っているのである。しかし残念ながら、恋はいつかさめてしまう。それで相手と別れてしまう。「あなたには愛がない」というとになる。これは「愛」という語の正しい用法だということができる。恋だけしかなく、愛がないのでは、恋がさめれば、相手と別れてしまうのは当然である。相手に価値がないのに捨てないのが愛であり、恋がさめても捨てないのが愛である。愛がなければ捨ててしまう。

 あなたの相手は、完璧な人、高い価値のある人だろうか。大抵の場合、欠陥だらけの人ではないだろうか。たしかに完璧な人はいない。しかし相手を捨てない。不思議なことではないだろうか。愛があるからだ、ということになる。愛には人間の理解を超えるところがある。

 したがって愛は、人間の合理的であたりまえの態度ではないということになる。とするならば、そこには神が働いていると言うことができるのではないだうか。愛することは割があわないが、愛する相手がいるということはこの上なく幸せなことだというのは、このような意味においてである。

 相手に「君を愛している」というのは、重大な発言である。「愛している」と宣言することは、相手に価値がなくても、相手がいい加減でも、相手を捨てないと宣言していることになってしまう可能性がある。「愛している」と言われるということは、いわば無限の保証の言質をとったようなものだからである。したがってみだりに「君を愛している」などと言うべきではない。それに、そもそも人間には愛を貫けないのである。

 愛は本来的には無限であるはずだが、人には限界があり、したがって人の愛には限界があるからである。単純な博愛主義に偽善的なところがあるのは、このためである。
 

 いや、なんで急に思い出したかといいますか、youtubeで【コピペ】妻に愛してるといってみた【2ちゃんねる】 を見て感動したからなんですがね…。

 http://www.youtube.com/watch?v=7Uply98etHE

 失礼いたしました。

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