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January 30, 2008

島原、天草の旅

Unzen_morning

 島原、天草、長崎を友人Yさんのクルマで案内してもらいました。隠れ切支丹の里を訪ね、そこに建てられた棟梁建築家・鉄川与助やフランス人神父「ド・ロさま」が設計した天主堂や教会を見て回るというのがテーマ。

 このルートをちょうど100年前に辿った人たちがいます。それは与謝野鉄幹に率いられた北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里ら五人の詩人たち。この「五足の靴」の旅は1907年(明治40年)7月28日から8月27日までかかりましたが、そのルート+αをほぼ二日で回ってしまえるのですから、道路整備の恩恵はたいしたものです。

 二日間の旅で長崎、天草の印象はガラッと変わりました。

 長崎というと市内ぐらいしか探訪していませんでしたが、こんなにも変化に富む海岸線をもっているとは思っていませんでした。考えてみれば、長崎は最も長い海岸線を持つ県なのですが、特に西岸の美しさ、海の碧さには感動しました。また、天草というと「耕作地のない島-->隠れ切支丹の里で貧乏人の子だくさん-->悲惨な生活」というネガティブなイメージがあったのですが、それを180度ひっくり返されました。面積は約1,000km2という巨大な島に空港まであってボンバル機が飛びまくっているという。しかも、縦横に張り巡らされた立派な道路網。心の中で「いままでマイナーなイメージばっかり持っていてすまぬ、すまぬ」と何回謝ったことか。

Unzen_fugendake2

【雲仙普賢岳】

 出発地は諫早。朝早く、頂上に雪を頂く雲仙普賢岳がキレイに見えたのには感激しました。出発は9時過ぎ。ギロチンで有名な諫早湾干拓の上を通れば、島原半島までは一直線。Yさんによると「諫早湾の海を一番汚しているのは実は海苔の漁師。ノリの胞子をつけた網を酸に浸し、海にひたす酸処理を行うことで、どれだけ海を汚しているのか。地元民はよく知っているから〝カネのために騒いでいるんだろう〟と思われているみたいだ。だから中央のメディアが環境問題としてとらえて報道しても、運動がいまひとつ地元では盛り上がらない」とのこと。地元にきてみなければよくわからない、いろんな問題があるんだなと思いました。

 国見あたりから山岳ルートに。それにしても、日本は道路をつくりまくっていて、まゆやまロードは平成新山をぐるりと見せてくれます。ちなみに眉山(まゆやま)は「島原大変肥後迷惑」の元凶。寛政4年(1792年)4月1日(新暦5月21日)、普賢岳の噴火にともなって発生した地震によって普賢岳近くの眉山が崩壊、有明海に流れ落ちた後(島原大変)、津波が対岸の肥後国天草に襲いかかって(肥後迷惑)合わせて1万5000人が亡くなったという大惨事。山が崩落するなんていうのはどんな事態なのか想像もつきませんが、1990年から1995年にかけての噴火では、逆に眉山が火砕流から島原市中心部を守ったといいますから何が幸いするか災いするのかわかりません。

 それにしても雲仙普賢岳は近づくにつれて異様さを増してきます。溶岩ドームはオーバーハングしていまにも壊れそう。しかも、白い噴煙が上がっている。よく地元民は怖くないな、と思いますね。

 下まで降りると火砕流被害をとどめた公園が道の駅に併設されています。なんでもこの道の駅は日本最大級とか。火砕流に埋もれた家々などを見物した後、軽く昼食をとりました。

Harajo1

【原城跡】

 この日は天草へ渡るつもりでしたが、フェリーが出る口之津口に向かう前に、ぜひとも見たいと思っていたのが原城。そう、島原の乱で反乱軍が立てこもった城跡です。

 バカ話をしながらのドライブだったんですが、ふと会話が途切れ、「ここやけん」と言われた瞬間、ちょっと背筋に寒いものを感じました。

 なにせ3万人とも3万7000人ともいう人々が殺された場所。幕府軍は城内にいた者のうち、内応していた1人を除き、女子供を含めた全員を殺したといいます。しかも、バラバラにして。今でも掘れば必ず人骨が出てくるとのこと。

 景色は美しく一日中いても飽きないということで、その昔は日暮城といわれていたらしいのですが、まだ大量の人骨が埋まったままということの薄気味悪さがあるためでしょうか、その風景が味わえません。天気も曇りでしたが、本当にうち捨てられた場所という感じがしました。

 普賢岳は島原からも天草からも見えたのですが、もちろん原城跡からも見えました。絶望的な籠城戦を戦っていた一揆軍たちは、どんな想いで普賢岳を見つめていたのかな、と思いました。

 それにしても観光客も数人程度。骨と髪だけになった遺体を供養したというホネカミ地蔵などもありましたが、正直、なにもかも怖かったです。

 その後は、島鉄フェリーの乗り場へ。天草までは30分の船旅。

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【崎津天主堂】

 「天草へ渡る」とひと言でいってしまいましたが、実は天草の主島は上島と下島のふたつがあります。島原・口之津と結ばれている鬼池はちょうど上島と下島の中間地点。今回は、下島を時計回りでグルッと一周しました。

 天草へ渡ったのは今回が初めて。フェリー乗り場のある鬼池から天草市に向かう道はかなりの混雑ぶりでしたし、東京などにもある様々な業種のチェーン店のほとんどがけっこう大きな店舗を出していました。

 しかも、驚いたのが道路の整備ぶり。上天草は南側が平地が多いのですが、北側は山が多い。その山々を縫うかのような道が張り巡らされています。

 「けっこう大物の政治家が出てないと、ここまで整備されないんじゃないのかな」と思ったら内閣官房長官・外務大臣・厚生大臣などを歴任した園田直が天草出身でした。子の博之も代議士ですが、なかなかやるもんですな。

Sakitsu_church1

 などと俗っぽいことを考えながら走っていたのですが、向かった先は崎津天主堂。

 もちろん「隠れの里」です。最初の教会が建てられたのはなんと1569年といいます。

 その後のキリシタン弾圧では、今の正面の祭壇のある場所で、厳しい踏絵が毎年行われたそうです。

 《そういう、いわば迫害を前提とした踏絵の場所にわざわざ祭壇をすえて教会をたてたというは、精神風土としてのキリスト教の一面と無縁ではあるまい。まことに執念深い》(『街道をゆく 島原・天草の諸道』司馬遼太郎、朝日文庫、p.290-)。

 この話、『島原・天草の諸道』の最後の最後に出てくるので印象的でした。明治6年にキリシタン禁制がとけるとすぐに教会が建てられ、明治21年には、初期の木造天主堂を建築。現在の天主堂は昭和10年に建てられた建てられた美しい「西海の天主堂」です。設計は棟梁建築家・鉄川与助(1897~1976年)。鉄川組は長崎の様々な天主堂を建てましたが、本人は最後まで仏教徒のままでした。

Sakitsu_church5

 目指す先は決まっているのですが、実際に行くとなると大変。天草の下島は、般若の面が横を向いたような形をしているのですが、崎津はその口というか喉のあたり。

 断崖の続く海岸線が深く入りこんだ羊角湾の奥の奥にあるんですから。

 逆にいえば、ここまで奥に入り込んだところではなければ、切支丹たちは二百数十年続いた禁制の時代を隠れられておられなかったのかもしれません。

 左手に海を見ながらしばらく走った後、山道に入りワインディングロードを延々と走り抜けてやっと着いたのが崎津。もう画に描いたような「天然の良港」です。

 漁村は土地が狭いのですが、目指す崎津天主堂の敷地のすぐ隣も民家。

 何枚か写真は撮ったのですが、良い撮影ポイントは505段の階段を登った丘からしかありません。

Sakitsu_church3

 しょうがないので登ったのですが、笑ってしまったのがこの「チャペルの丘」の入り口が神社なこと。

 大きな鳥居をくぐって神社の境内を通った後も、何回も鳥居をくぐらないと頂上にはあがれません。

 しかも、頂上には金比羅さんがまつられてあります。

 まさに日本的な風景でした。

 しかし、やっぱり天草ではカトリックが強いのでしょうかね。

 山上には金比羅さんを圧するかのような巨大な十字架のモニュメントが建設され、夜にはライトアップされるみたいです。

 カトリックの漁師たちは港に出入りする時には天主堂に向かって十字を切るそうですが、船の波紋が美しかった。

Ohe_church1

【大江天主堂】

 崎津天主堂からそう離れていないところにあるのが大江天主堂。

 小さな建物ですが、人びとの記憶に残ることは多い天主堂です。

 隠れキリシタンの発見はカトリック「業界」にとってとてつもないビッグニュースでした。

 しかし、なにせ200年以上も隠れていたため、彼らは禁制が解かれたとはいってもなかなか表には出てこなかったそうです。明治維新直後に名乗り出た浦上の信者たちは、殺されはしませんでしたが、明治政府から江戸時代と同じような責苦を負わされましたし…。

 そうした中、崎津天主堂を拠点にしていた神父が大江地区に赴き、住民を集め説教を行うと、その中から3人が名乗り出てカトリックに改宗したそうです。

 崎津からは近いといいながらも、大きなトンネルを2本は通らなければ行けない場所ですし、昔は船しか交通手段はなかったと思います。崎津と同じように湾が深く入り込み、隠れるにはもってこいの場所だったでしょうね。

 次に、前にもチラッと触れましたが、与謝野鉄幹に率いられた北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の学生5人が天草を旅したのは、この大江天主堂のガルニエ神父を訪ねるためだといいます。後年、北原白秋は『邪宗門』を発表、「南蛮文学」はブームとなったそうですが、この中に吉井勇の名前を見るのは意外な気がしませんか?

 吉井勇というと「かにかくに祇園は戀し寝るときも枕の下を水のながるる」なんという歌を思い出しますが、ここでは「白秋とともに泊りし天草の 大江の宿は伴天連の宿」というウブな歌が刻まれています。そんなことを話すと、Yさんは「聖と俗はいつの時代も背中あわせ」と答えるのみ。

 まあ、このガルニエ神父は文学者五人や信者だけでなく住民から「パアテルさん」と呼ばれて親しまれ、天主堂建設にあたっては、2万5000円の建設費のうち2万円を工面したそうですが、それらは赴任してから一枚も服を買わなかったり、フランスへの帰国手当を貯めた私費が含まれていたといいます。

 白亜の建物は印象ですが、ここも設計は鉄川与助。

 崎津はなぜか閉まっていて入れなかったのですが、大江天主堂はオープンされていました。

 「撮影禁止」ということでご紹介はできませんが美しく明るい天主堂でした。

 しかし、崎津にしても大江にしても外壁がキレイなんですよ。

 これって空気が汚れていないからなんですかね。

Garasya2

【群芳閣 ガラシャ】

 ということで、伴天連の文化にひたりまくっていたのでありますが、ふと時間をみると、もうかなり遅くなっています。天草は当たり前ですが島。熊本とは天草五橋とつながっていますが、そこから長崎に帰るのは大変。鬼池からフェリーに乗って口之津まで戻るしか手はありません。フェリーの出港時間を調べてみると、最終は18:30となっていて、どうにか間に合いそうだったのですが、よーく見てみると、その前の時間とは色が変わっている。「ま、まさか…」と思って、細かな字を読んでみると観光シーズンだけにしかこの便は運航されていないとのこと。

 ちょっとガッカリもしましたが、いまから長崎に戻っても、開いているのは全国チェーンの居酒屋ぐらいなので、天草に一泊することに決めました。

 Yさんが天草の地元自治体につとめている友人に電話して推薦されたのが「ガラシャ」。「細川の姫さまのガラシャね」と確認し、カーナビに入力すると、もう目的地までの誘導が始まるのが素晴らしい。

 「もうゆっくり行こうや」ということになり、妙見浦や「五足の靴」が遭難しかかった下田北から下田南に抜ける途中にあるブルーガーデンなどに寄って景色を楽しみました。

 「群芳閣 ガラシャ」に着いたのは6時すぎ。

 旅装を解いて、さっそく夕食。なんとお友達のご厚意で素晴らしい大皿も加わっています。

 ありがたい!

 にしても、ここはいい宿ですよ。温泉も肌に優しい。硫黄臭い温泉は苦手なのですが、ここはアルカリ泉というか、まったく臭くないのがいいです。

 絶対お勧めです。

 小生が泊まったのは「吉井勇の間」。「かにかくに…」で有名な吉井勇ですが、こんなのもいいですよね。

Myokenura

「雨降りて祇園の土をむらさきに染むるも春の名残りなるかな」
「先斗町の遊びの家の灯のうつる水なつかしや君とながむる」
「比叡おろし障子をさむく鳴らせどもわがおもひでやおほかたは艶」

「群芳閣 ガラシャ」 熊本県天草市天草町下田北1296 TEL0969-42-3316

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