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January 14, 2008

『中国思想史』

Chugoku_shisoushi

『中国思想史』溝口雄三、池田知久、小島毅、東京大学出版会、2007

 これも小田中先生のネタ帳から「面白そうだ!」というので読んでみた本。中国思想史研究者の大御所、溝口雄三先生が20年来暖めていたという本だけあって、内容は正直、驚愕しました。

《われわれは二十一世紀をアジアの世紀、あるいは中国の世紀と呼びたいと思う。真に中国となった中国の全体像を描き出す作業は、アジアを真にアジアにし、ひいては世界を真に世界にすることに貢献すると思われるからである》(p.244)とまでは思わないにしても、中国に対する見方を、大きく変えられたような気もします。

 全体の見取り図は小田中先生も引用しているように《本書は中国史上四つの大きな変動期に焦点を絞り、そこにどういう新しい歴史が生みだされたのかを解明しようとする。変動期とは、第一にまず秦漢帝国の成立にいたる過程(第一の変動期)であり、ここに二千年におよぶ中央集権的な王朝体制が誕生した。しかしその後、皇帝専制のもと、唐代までの門閥・貴族社会は、いわゆる唐宋変革(第二の変動期)によって、宋代以降、実力本位の科挙官僚制社会へと巨大な転換を遂げる。のち明末清初期(第三の変動期)には、朱子学の民衆化や陽明学の興りに見られるように、士紳と呼ばれる層が民衆のリーダーとして地方の社会秩序を主体的に担いはじめ、近世から近代への扉を押し開いた。この士民の力がやがて清代を通じて上昇し、嘉慶年間以降は民衆反乱に対する自衛武力組織が充実し、太平天国期における「地方による地方のための軍隊」すなわち湘軍の建立を契機の一つとして、ついに省の独立をもたらし、辛亥革命(第四の変動期)として王朝体制そのものを瓦解させたのである。この清末民国期の変革はのち1949年の建国革命によって新しい中央集権的な建国へ引きつがれた》(i-ii頁)というところでしょうが、抜群に面白かったのが溝口雄三先生が担当した三章、四章。

 《明代の里甲制という徴税のための行政システムが村落のすみずみまで》設けられたのですが、《明末になると田土の所有関係など経済関係の激動化(均分相続制と人口増加、貨幣経済の進展などにもとづく)にともない、都市や郷村で》《郷紳と呼ばれる、官僚経験のある地方エリートを中心とした富民の発言力が増大》(pp.145-)、太平天国の乱に対して鎮圧できなかった清王朝の軍を助けたのは李鴻章などの淮軍や湘軍だった、と。

 こうした"郷里空間"は鉄道を敷くほどの経済力を持つほどになり、辛亥革命はこうした地方鉄道を国有化したうえで担保となし、さらに鉄道建設を進めようとした清朝政府に対する反乱として起こり、やがて1911年11月下旬には24省中14省が清朝から独立するという経過を辿ります(p.215)。

 思想史に関しては朱子学までは比較的、丁寧に説明されている感じがしますが、陽明学に関しては《明代中期には朱子学の鬼子ともいうべき陽明学を生みだし、民衆化はいっそう加速》(p.168)、《里甲制はその全戸を自営農とする建て前が、明代中葉になって土地所有の流動化などによって崩れるにともない、制度自体が動揺するにいたった。陽明学はそのような動揺期に民間の有力者たちに郷村秩序を担わすべく誕生した》(p.192)ぐらいで、あまり詳しく触れられていないのが意外というか残念。

 ここからは個人的なヨタ話。陽明学は明治維新の原動力になったといわれていますが、それは、中国と同じく郷村に受けいれられたからなのかな、と思いました。それまでの儒学が天下をどう収めるのかという問題意識だったのに対して、陽明学は…みたいな説明がこの本からもっと得られたら面白かったかな、と。

 中国は伝統的に国家概念が希薄で、《民は国家に隷属せず、天の民として天下に帰属するという天下概念が伝統的に形成されていた》(p.216)というのは改めて整理された感じ。

 と終わろうと思ったのですが、せっかくメモとりながら大切に読んできましたので、印象に残ったところを…。

[第一章 秦漢帝国による天下統一]

 《孔子は天・鬼神を語らなかった》(p.6)。孔子は古い信仰を乗り越えることを課題として、鬼神についての問いには、何も答えなかった、と。元々は宗教的な「礼」を世俗化した、と。こうした呪術・宗教の乗り越えは、諸子百家に受け継がれた、と。戦国後期の儒家は無神論だった、と。しかし、民衆の宗教的エネルギーは無視できず、荀子はその政治的利用を主張した、というんですが、なるほどな、と。儒教というのは無神論なんですわな。

 小生なんぞも、生意気に論語なんかを拾い読みすると、時々、スカッとするんですが、それは孔子のドライな現代性が感じられるからなのかな。「逝く者は斯夫の如きか、昼夜を舎かず」(『論語』子罕)なんて、いい感じ。無常観あふれてます。

 《孟子は、君主・臣下・民衆など現実に存在する差別を正当かつ合理的と考えていたし、荀子は、万人は同じスタートライン(性)に並んで出発するが、その後はそれぞれの自己責任による学習・修養の結果、現実のゴールでの能力は千差万別となる。貧者と富者、知者と愚者、有能者と無能者などはこうして生まれた「分」であり、このように人間を分けるための理念が「礼(社会規範)」なのだと考えてていたのだけれども》(p.35)というあたりはクリアカットなまとめですね。この『中国思想史』は本当に読書の楽しみを与えてくれましたが、できれば、それぞれの根拠を示す言葉も註で紹介していただければ、なお、良かったのではないかと思います。といいますか、これを元に新書化する場合などは、ぜひ。例えば、ここなんかは、「藍より青く」で有名なこんな句を選んだりして*1(違ったら恥ずかしいですな…)。

 秦の始皇帝は封建制を廃し、郡県制を敷き、郡守、県令を中央から派遣したのですが、後の儒教国教化の中で、郡県制は否定的な評価と結びついた、というのも改めて言われるとなるほどな、と(p.50)。劉邦(前漢の高祖)は建国の功臣を諸候王・列候に封じてその候に報いるという独自の郡国制をつくりましたが、ここらへんは劉邦独特の現実重視の考え方なのかな、と(p.46-)。

 武帝は儒教化された封建論を実施しようとしますが、『老子』ファンの祖母にその政策の実行者が自殺に追い込まれたために頓挫したといいます(p.53)。これはなんと前139年のことだというんですが、日本でいえば弥生時代に哲学的な立場を明確にした理念的な皇帝の祖母がいたなんて…と改めて驚きあきれてしまいます。日本のにはこうした理念的な天皇の近親者ってあまり聞きませんもんね。もっとも、未来予言を的中させた京房を登用した元帝みたいなのもいたんですから、ひとまとめにはくくれません。さすが4000年の歴史です。

 この後《後漢は後期以降になって社会が混乱したが、前漢・後漢の国家を唯一の正統思想として担ってきた儒教は、これに対して無力》(p.78)であったということから、道教と仏教が民衆の心をとらえていきます(p.78)。

[第二章 唐宋の変革]

Ryo

 いきなり内藤湖南の学説がドーンとフィーチャーされますが、これってフツーなんですかね?『哲学史研究において唐までと宋以降とを区別する見方はそれ以前からあったが、内藤は時代の本質を規定して、唐代までを貴族文化の時代、宋代以降を平民文化の時代とした』(p.86)というんですが、宋代の士大夫たちは朱子学という新しい学問を打立てます。その背景には印刷文化もある、というんですな。『古今の知識は必ずしも頭の中に収めておく必要はない。書架には印刷刊行物が並んでいる。重要なのは、瞬時にして必要な情報を取りだすことである。世界中どこでも見られるこの現象に、最も早く到達したのが中国であった』(p.88)。

 宋代は塞外民族の力が強くなって漢族王朝を駆逐することが起きます。それまでは形だけでも禅譲で王朝は交代してきたんですが、民族抗争となってしまった、と。唐宋変革の大きなところは《易姓革命理論が力を喪失したという思想的な事情があった》(p.100)というんですな。そして《王朝の「徳」が不要とされるようになった》(p.101)のですが、代わりに出てきたのが「理」だと。天子は王朝を打立てた子孫だから尊いのではなく、人格者だから天子でいられる、という感じ。

 《「聖人学んで至るべし」。朱子学ではこれを標語として掲げる》(p.105)。これは《人を生まれで差別していた唐代までの貴族制の人間観とは大きな相違》です。

 あと、改めてそう言われると「なるほどな」と思うのは、《東アジアの思想伝統では、専制と自由は二律背反しない。正確には、そうした軸を立てて思考しない。そこで問われたのはつねに「礼」の有無であった》(p.104)。《議会や社団がないのは、必要が意識されてこなかったからである》(p.106)。だから《帝国の秩序を大きく逸脱しない範囲で、人々がどのようなふるまおうとそれは当人の「自由」である》わけです。だから中国の専制には啓蒙の二文字を冠するのがふさわしい、と(p.107)。中国の皇帝は「天皇機関説」ならぬ「皇帝機関説」で説明できる、と(p.108)。

 蒙を啓かれたのは、宋が五代のあとに中国の再統一に成功したというのは、宋人がつくりあげた虚構であり、それをぼくたちも信じ込まされているという話(p.118)。遼(契丹)という大きな存在があったんです。そして正統論にこだわった北宋の徽宗は五代以来の悲願である燕雲十六州の奪還に乗り出しますが、共に遼を挟撃した金との約束を破り太宗による侵攻を招くという最悪の事態を招きます。ここらへんは、貧すれば鈍するという感じですね。王安石が「柔桑採尽緑陰稀」と詠う『郊行』を思い出します*2。

 朱子学は治者のテキストであった『大学』を重視し、科挙試験の正答の基準となっていきますが、科挙合格者は限られ、《大多数の科挙受験者は一生涯を在地社会で過ごす運命であった。そうした人たちにも、天下国家のお役に立っているという満足感を与える場として創造されたのが郷里空間であった》(p.134)わけです。そして、それを継承して、発展させたのが陽明学なんでしょうかね。少なくともこの『中国思想史』はそう構想されているようです。

*1
干越夷貉之子、生而同声、長而異俗、教使之然也。
干越夷貉の子、生まれたるときはすなわち声を同じくするも、長ずればすなわち俗を異にするは、教へこれをして然らしむるなり。
(勧学篇第一)

*2
柔桑採尽緑陰稀、蘆箔蚕成密繭肥、聊向村家問風俗、如何勤苦尚凶飢?
柔桑採り尽くして緑陰稀なり、蘆箔に蚕成って密繭肥ゆ、聊か村家に向って風俗を問う、如何なれば勤苦するも尚凶飢するかと?
(郊行)

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