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January 16, 2008

『安原製作所回顧録』

Yasuhara_kaikiroku

『安原製作所回顧録』安原伸、えい文庫

 1990年代は日本経済が戦後最悪の時期でした。でも、なにをもって最悪だったかということに関しては、表面的なことしか言えなかったんじゃないかと思いました。

 この本を読んで、ひとつのことに思い当たりました。それは、当時のメカニカルな技術では《カメラメーカーは意外な壁に突き当たる。開発すべき技術がもう無いのだ》(p.90)という実感です。

 この『安原製作所回顧録』はコンタックスプランドで優秀なカメラをつくっていた京セラに勤めていた技術者が、こうした閉塞状況にイヤ気をさして退社、中国のカメラ工場と提携してファブレスメーカーとして独立、「安原一式」という自分の名前を冠したカメラをつくりあげたのはいいけど、二号機の「秋月」の開発遅れの結果、デジタル化の波に押されて会社をたたむまでの話を淡々と回顧した本です。理系の方が書いた本らしく、過剰な思いこみなどを並べないところが、かえって〝行動の詩〟を感じさせてくれます。同時に、日本と中国の関係、中国の国営工業の技術的な課題、日本企業のマネジメントの失敗など大きな問題をも考えさせてくれます。

 ぼくは子どもの頃からカメラ好きでした。写真を撮るという行為よりも、カメラそのものが好きだったと言えるかもしれません。当時、耐久消費財の王者であったカメラは、一家に一台の宝物という時代でした。ウチにあったのは安物のヤシカのレンジファインダーでしたが、小学生の時は憧れの的でしたね。どうにか露出とピントをあわせ、写真を撮れた時の喜びは今も忘れられません。

 当時はこうした操作そのものが誇らしかったのですが、カメラメーカーもそうした気持ちがわかっていたのでしょう、なんとも魅力的なメカニカルな構造をカメラに与えていました。プラモデルのボックスアートなどで有名な小松崎茂画伯が確か赤瀬川源平さんとの対談で、ニコンF4かなんかに触れながら「日本は戦争に負けて、戦艦をつくるかわりに、カメラをつくったんだよ」というようなことを語っていたのを思い出しますが、日本のカメラには語られない魂が宿っているように感じました。

 日本のカメラメーカーがお手本にしたのはドイツのライカです。それまで戦前につくられたバルナック型のライカのコピーを主力商品としていた日本のカメラメーカーは、まったく機構を一新させたLeica M3が1954年に発表された時に、2つの道を選択しなければなりませんでした。時代遅れのバルナック式ライカのコピーをつくり続けるか、様々な克服すべき課題が山積している一眼レフに死中活を見いだすべきか。結局、生き残ったのは一眼レフ派でした。

 そして日本のカメラメーカーはライカを駆逐します。《1970年代になると技術的に独走状態となり、AE(自動露出)、フィルムの自動巻き上げ、ストロボの内蔵、コンパクトカメラのAF(オートフォーカス)化を次々と実現していった。最後に残った一眼レフのAF化という大課題も1980年代に実現してしまう》(p.90)。

 しかし、そこは誰もが戸惑ってしまうような大きな踊り場でした。

 最初に引用した《これで35ミリフィルムカメラは行き着くところまで行ってしまったのだ(中略)1990年代はフィルムカメラ最後の時代だ。ここでカメラメーカーは意外な壁に突き当たる。開発すべき技術がもう無いのだ》という事態に陥るのです。

 1980年代末に京セラに就職した安原さんは、コンタックスの開発に携わります。しかし、一眼レフのAF化に遅れをとっていたコンタックスは「コンタックスAX」という鬼子を産み出してしまいます。

 コンタックスはレンズの描写が命でした。特に中望遠。肌色の再現力がまったく違うことに驚いたことが個人的にもあるのですが、同時に高かった。あまり値引きもせずキヤノン、ニコンの同程度のレンズと比べて実感では1.5倍から2倍ぐらいしていました。そうした高いレンズを一気にオートフォーカス化できずにいたコンタックスは《フィルム面を光軸方向に前後させることによりピントを合わせる》(p.27)という禁じ手を採用するのです。

 一見、カメラ好きでない方は「面白い発想じゃない」と思うかもしれませんが、レンズのピントリングの位置によっては当然うまくピントはきませんし、フランジバックを変化させることによる画質劣化も起こります。そして安原さんはこうしたAX開発に関与したことに罪悪感を覚え京セラ・コンタックスを去ります。《こんなものを開発するような体制はまともではない》(p.31)というのは悲痛な言葉です。

 京セラ・コンタックスは一眼レフのAF化に遅れをとっただけでなく、デジタル化にも遅れをとります。なんと、社内のプロジェクトチームを解散させてしまうのです。そしてリソースを全てつぎ込んだNシリーズがコケて、京セラ・コンタックスはカメラ業界からも撤退。

 安原さんが京セラ・コンタックスを去るのは1997年2月末でした。

Yasuhara_issiki

 いよいよ安原製作所を立ち上げるのですが、ここから意外な行動力をみせます。新宿の中国人ストリートミュージャンが弾いていた二胡の音色に魅せられ、その場で3万円を渡して中国から取り寄せてもらったり、中国の国営工場にひとりで交渉に出かけて「カメラを一緒につくりましょう」と働きかけたり。

《初めてあった浮浪者然とした正体不明の中国人を相手にこういう行動をとるのが私の性》(p.37)
《(世田谷区から)融資を受けた金の大半は中国に送金したのだが、不思議に不安も無かった。もしかしたら破綻願望があったのかもしれない》(p.49)

 なんてありたりは好きですね。

 また、安原一式が話題を呼び、日本写真機工業会で講演を頼まれた時に語ったという《戦後日本の優秀なカメラは世界を席巻し、他の国のカメラ産業を根絶やしにしてしまった、こうなると我々日本のカメラメーカーは儲かって仕方ないはずだが、実際はそうなっていない。絶望的なシェア競争と価格競争を続け疲弊していくばかりだ》(p.77)というあたりは悲しい日本の経済論にもなっています。

 カメラ業界の初期、販社が力を持っていたので、キヤノンもその最初のライカコピー機をハンザ商会から出してもらうために「ハンザ・キヤノン」として売り出さなければならなかったというのは《有名な話》(p.106)らしいのですが、ぼくは初めて知りました(ちなみに「ハンザ・キヤノン」は100数十台しかつくられておらず、市場に出ればおそらく数百万円はするハズです)。

 スジを通せば信義に篤い中国メーカー、しかし、一般人の世界とは断絶をつくらなければならないので、城という区切られたエリアの中に閉じこもっているみたいな話も面白い。

 あまり詳しく書くと、これから読む方の喜びを奪ってしまうので、ここら辺にしておきます。

 早くも「今年の○冊」に絶対あげるだろうな、という本に出会ったという実感です。

Yasuhara_akizuki

 あと…2号機・秋月が欲しい!

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