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December 04, 2007

『哲学塾 なぜ意識は存在しないのか』

Tetsugakujuku_ishiki

『哲学塾 なぜ意識は存在しないのか』永井均、岩波書店

 とりあえず、一年に一回あるいは二年に1回ぐらいは唯我論の本を読むことにしています。

 ぼくは情けないぐらい実際的な人間でして、例えば自分が自分であることの驚きなんていうのは、申し訳ないですが感じたことはありません。しかし、そうした当たり前のことといいますか、自分の立っている大地が崩壊して宇宙に放り出されるような感覚をひょっとして深刻に感じている人たちがいるのかもしれない、ということに真摯でいたいといいますか、もしかしたら、ぼくのような実際的な考え方が間違っているかもしれないということを留保したいと一応、考えています。

 永井先生は信州大学から千葉大に移られた時もビックリしたのですが、千葉大から日大に移られたというのは知りませんでした。それはそれとして、この本は大阪大学で昨年10月に行われた講演を元に、大幅に書き換えられています。しかし、その講演は「ラジオ・メタフュシカ」というインターネットラジオで聴くことができて、とても判りやすい。

 いきなり結論的に語られているのは、この講演は「意識という概念が存在しない」ということを語ったものである、ということです。

 永井先生のファンの方も多いと思いますので、この講演の記録は喜ばれるんじゃないでしょうか。ただ、この講演の永井先生は、ちょっとハイテンション。大学院の少人数で行われた授業でしか聴いたことはありませんが、その場合は、もっとローテンションなしゃべりといいますか、多くの方が著書から想像するしゃべりだと思います。

 短いこの本ですが、1日から3日に分けられていて、個人的には2日目までしかなんとなく程度にしても理解できませんでした。

 2日まで永井先生が語っているのは、意識が欠けた、クオリアが欠けた人間=ゾンビが可能であるとチャーマーズが『意識する心』などで語っている内容は間違っている、というか、クオリアの欠如を想定できるかという問題の周辺をもっと考えるべきだ、ということです。チゃーマーズは問題意識が間違いであって、それより問題なのは《言語とは、世界を人称的かつ時制的に把握する力なんですね。そのことによって、客観的世界というものがはじめて成立する》(p.109)ということなんだと思います。

 クオリアが欠如した人間(ゾンビ)を想定できるかという問題を味わう、というのが2日目までの講演の内容ではないかと思います。

 《「今である」という性質は(何ものにも!)付随していないわけです。前回の講義でのあの類比が成り立つなら、「私」の場合も、これと同じことです》(p.67)なんて言い方はいいですね。ほんの少しだけですが、誤解かもしれませんが、分るような気がします。《意識はたまたま私秘性という性質をもつものではなく、むしろ私秘性という性質を実体化したものが意識なのです》(p.71)とか、デカルトのコギトに関して《それは、じつはもっぱら言語の働きによるもので、言語が見せる夢にすぎないのですが、われわれは言語が見せる夢の世界に生きているのですから、その夢から「覚める」ことはできません》(p.82)なんてあたりも。

 なんとなく理解できるのはここらあたりまで。3日目も深刻な論議が繰り広げられるのですが、どうしても《なぜか私という唯一例外的なものが存在し、しかもそれが世界の中に無数に存在している通常の「意識を持つ個物」の一つでもあるから、このありふれた事実こそが驚くべき事件なのですよ》(p.150)という凄さが、味わえないんですよね…。

 毎日、質疑応答が行われるのですが、2日目の《ハイデガーは、他者と決して共有できない「死」こそが他者との根源的な共同性を作り出す最後の紐帯だと言っています。この話は、しばしば情緒的に読まれてしまうのですが、死が特別であるのは、それが文法的な同一性の基準を超えた、共有できないどころか他の同種のものと並列されることも不可能な、「これ」の水準を、それが指し示すからだと思うのです。彼の言う「存在」こそがそこに辛うじて開示されるわけです。いま問題になっているのは、そういう種類の問題であると理解してよろしいでしょうか》(p.111-112)という質問は非常に共感できるな、と感じました。

 つまらない話かもしれませんが、どうもゾンビというのは西洋哲学といいますかキリスト教的伝統では深刻な状態らしいんですね。個人的な経験からも彼らはこのゾンビという言葉自体を嫌います。読んでいてフト、東洋の言語環境で哲学的キョンシーの問題を考察するというのはちょっと笑えるのではないかな、なんてふとどきなことも思ってしまいました。

 あと、《因果性と法則の存在は、たしかに還元による説明はできない》(p.73)というあたりは、宗教が存在できる根拠を語ってるのかもしれない、なんてことも考えました。

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