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November 17, 2007

『波乱の時代(上)』グリーンスパン

Greenspan1

『波乱の時代 The Age of Turbulance(上)』アラン・グリーンスパン、山岡 洋一/高遠 裕子(訳)、日本経済新聞出版社

 原著は一冊ですが、まえがきと後半のスタートである12章でも触れられているように、前半は経済の仕組みに関する理解をいかに深めていったかを、後半ではその過程で導き出された結論を描いていますから、とりあえず日本語版の上巻だけについて書いてみます(原著でも、後半に入る部分に写真を16頁分、はさんであります)。

んー、とりあえず、今年読んだこの手の本の中では一番、面白いかもしれません。

[アジア版序文とまえがき]

《東アジア各国の生産性の伸び率は現在、三・五%から九%の範囲だが、いずれ年三%以下に低下することになる。この三%という生産性伸び率は、後に論じるように、人間の知識の向上によって達成しうる限界だとみられる》(p.3)

 いきなりのご託宣。高度成長期から安定成長期、ゼロ成長からデフレ経済と推移した日本からみると、この3%という水準も随分、高い目標だな、と感じてしまいます。しかし、この「成長率の限界は年3%」という言葉は、マジックナンバーでもあるし、これから共通認識として広まっていくかもしれません。

《アメリカ経済の最大の強みはその回復力にあるとわたしは考えるようになってきた》(p.15)

 確かに。個人的にアメリカ経済がどん底に落ちたなと感じたのはブッシュ・シニアの頃でしたが、そこからの回復はすごいものでした。9.11の後もそれは証明され《金融市場の規制が緩和され、労働市場がはるかに柔軟になり、最近には情報技術が大幅に進歩したため、ショックを吸収して回復する能力が高まっている》(p.16)という結論になるのでしょう。《通常、経済に何が起こっているのかを真っ先に示すのは、失業保険新規受給申請者数であり》(p.16)、9.11後も12月になると申請者数も減少に転じたそうです。米労働省は毎週木曜日にこの指標を発表するそうですが、日本の厚生労働省も人が余っているでしょうから、月イチの労働力調査だけでなく、週イチぐらいにこの手の指標を発表して欲しいですね(まあ月給と週給という習慣の差があるのかもしれませんが)。

 《途上国は通常、先進国より貯蓄率が高い。ひとつには、社会的なセーフティ・ネットが不十分》《消費文化が確立してない》(p.23)というクリアカットな言い方の後に、東アジア経済の立ち上がりによって、世界の総貯蓄が投資計画の総額を大きく上回り、実質金利が目に見えて低下《投資収益を求める資金の伸び率が、投資家の需要の伸び率より高か》くなったというのもなるほどね、と(pp.23-24)。《過去二十年、インフレ調整後の実質長期金利の低下とともに、被し、不動産をはじめあらゆる収益性資産で、収益に対する価格の比率が上昇した》(p.24)というあたりも含めて、何気なく書いていますが、怖い話です。

 《経済的な反応にも、恐怖が基礎になるっているものが多い》(p.29)というのも、60年間の重みを感じさせる言葉です。

[第一章 ニューヨークの子供時代]

 音楽家を目指し、ジュリアード音楽院に通い、スタン・ゲッツの隣で学び、ヘンリー・ジェローム楽団に加わって演奏していたというのは知らなかったな。高校を卒業したのは1943年で、すぐに収集令状を受けとるものの、肺に黒い影が見つかって兵役につかず、楽団では知識人としてみなされ、サックスとクラリネットのほか納税申告の役割も受け持ったとのことです。アメリカのこうした自由さはさすがですな。演奏の合間、投機王リバモアに関する本を読み《「強気のベアも弱気のベアも儲けられる。だが貪欲なピッグは生き残れない」》という言葉などが印象に残っているといいます(p.44)。このリバモアという人、1929年の暴落の直前に空売りで、一億ドルを儲け、その後3回破産して1940年に自殺したとのこと。いやはや。

 ウォール街に魅力を感じ、1945年秋にニューヨーク大学商学会計金融学部に入学しますが、当時、この学部は《大学というより職業学校のようなもの》(p.45)とみなされていたとのこと。

 卒業はするものの、ニューヨーク大学に残り、奨学金を得て夜間の修士課程で学ぶことを決め、コンファレンス・ボード(全米産業審議会)の週給45ドルの仕事につきます。全米産業審議会は1913年に消費者物価指数を開発したところ。こで資料室にあるデータを読み込み《データを分析し、しれが物語るものを指摘する能力に自信を持つようになった》(p.51)ということです。

 やがて学業との両立をあきらめることになるのですが、修士となった後はいったんコロンビア大学の博士課程に進みます。ここで《後に、わたしは大規模な計量経済モデルを構築する技術をある程度修得し、そうしたモデルの使い方、とくに限界を深く理解するようになった》が《モデルそのものよりも、アド・ファクターの方がはるかに重要だということも少なくない》(p.55)というようなあたりや、ケインズについても《わたしが興味をひかれたのは数理分析での確信と構造分析であって、経済政策に関する考え方ではない》(p.47)というあたりも含めて、マクロ経済学に対して昔から疑問を抱いていたというあたりをさりげなく書いています。

[第二章 エコノミストへの道]

 グリーンスパンはやがて独立し、1953年に共同でコンサルタント会社「タンウゼント・グリーンスパン」を設立し、博士号は諦めます。当時の話で面白いのは《当時はメーカーとサプライアーの関係はポーカーのゲームのようだった。家電企業の購買部長が冷蔵庫の製造に使う鋼板を買おうとしているとき、鉄鋼会社の営業担当者に鋼板在庫の水準を知らせると、価格交渉力が低下するだけになる》(p.68)というあたり。サプライチエーンの統合が進んで情報が行き交う現在とは、まるで違った風景だったんでしょうね。

 そして《1958年の景気後退にいたった景気の減速を予測したのは、わたしにとって経済全体に関する初めての予想であった》(p.70)という具合に仕事へのめり込んでいきます。

 当時の話で面白かったもの。《食品会社は缶詰が大好きだった。野菜や肉、飲料を詰め、長距離を輸送し、長期間にわたって貯蔵できるからだ》(p.73)。まあ、だから消費者は缶詰を嫌うわけですが。

 この頃からシュンペータのいう「つねに吹き荒れる創造的破壊の嵐」という言葉を噛みしめていったそうです(p.75)。

 やがてニクソン政権に参加することを決意しますが、この言葉は印象的。《民主主義に法の支配を適用するとき、公共の問題のほぼすべてで何らかの意見の不一致があることが前提になっている。妥協は、文明の発達の代償であって、原則の放棄ではない》(p.77)。

 いいですね「妥協は、文明の発達の代償であって、原則の放棄ではない」。

 しかし、ニクソンには心にダークサイドを感じ、実際にワシントン入りするのはフォード大統領時代からなのですが。

[第三章 経済学と政治の出会い]

 1960年代まで、アメリカ政府は経済を家計をモデルに運営し、アイセゼンハワー大統領は財政収支の赤字を国民に謝罪したそうです。こうした中、ケネディ大統領に減税を実施すれば経済を刺激できると提言したヘラーあたりから風向きが変わってきます(p.79)。

 グリーンスパンは選挙戦でニクソン陣営に加わりますが《わたしが関わった大統領のなかで、ニクソンとクリントンは飛び抜けて優秀だと思う》(p.84)というのは貴重な証言ですね。しかし、共和党の指名大会の一週間前、ある会議で急に不機嫌となり、民主党がいかに悪辣かを四文字言葉を使いながら興奮してわめくニクソンの姿を見て、ホワイトハウスのスタッフとになることを拒否します(p.86)。

 さらに、ニクソンが辞任してほっとした。《ナニをするか分らない人物であり、その人物が強大な権力をもつ大統領の地位にあるのは恐ろしかったのだ》(p.87)とまで酷評します。

 フォード大統領については常識的な人物であり、実はめったにいない心理テストでも正常とでる人だろうというのが人物評。このフォード大統領の大統領経済諮問委員会委員長としてグリーンスパンの公職はスタートします。

 《景気後退はハリケーンと同じで、軽度のものから深刻な被害を及ぼすものまである》(p.97)。政策を決定するときに自問するのは経済に対する悪影響であり、成功の確率が50%以上でも、失敗したときの打撃が大きくなるのであれば採用しない。それは《失敗したときの打撃を受けいれることができないからだ》(p.99)というのは抑制のきいた意見ですね。《規制緩和はフォード政権の大きな成果のひとつだ》(p.104)というのは意外。てっきり次のカーター大統領からだと思っていましたから。

[第四章 民間人][第五章 ブラックマンデー]

 現職のフォードがカーターに破れたため、グリーンスパンもNYに戻りますが、レーガン政権となり、ポール・ボルカーの後を継いで1987年6月2日、FRB議長に就任します。

 レーガン政権の元で財政赤字は巨額なものとなり、インフレ率も3.6%まで高まり、FRBは借入金利を引き上げます。そして就任から10週間後の10月、株価が22.5%も下がるブラックマンデーを経験します。

 ぼく自身が社会人となって、初めて注目をあびたFRB議長はボルカーで、そのカリスマぶりは、当時、すごいものでした。だれがやっても、ボルカー以上の仕事はできないと言われていたことも思い出します。その後任にグリーンスパンという知らない人物が座り、いきなりの大恐慌をうまく乗り切れるのか?と影ながら心配していました。

 グリーンスパンが留意したのは、市中に流動性を供給し続けること。今となっては信じられないことですが、ゴールドマン・サックスがイリノイ銀行に7億ドルを支払いを延ばし、結局は考え直して支払ったものの、もしこれを行わなかったら《市場全体に債務不履行の連鎖反応が広まっていっただろう》(p.158)とのことです。まさか、ゴールドマン・サックスがね…と思いました。そして、ブラックマンデーによって一時的なショックを受けたけれども、景気拡大は5年目に突入します。《財産をすべて失った投機家や経営が破綻した多数の中小証券会社にとって慰めになるわけではないが、庶民は打撃を受けなかった》(p.160)というのは中央銀行家として力強い言葉ですね。

 FRB議長の役目は何かと問われて、1950~60年代に議長をつとめた人物は「パーティが盛り上がってきたまさにそのときに、パンチ・ボウルを片付けるように命じるのがFRBの役目だ」と答えたそうです(p.161)。

 ブッシュ・シニアは《管理が主に市場の力で決まるとは考えてない。好みによって変えられるものだと考えていたようで、あまり賢明な見方だとはいえない。経済政策は側近に任せることを好んだ》(p.172)、《経済政策についてじっくり議論する忍耐力が、レーガン大統領には欠けていた》(p.177)というあたりも貴重な証言でしょうね。

[第六章 壁の崩壊]

 ここは主にソ連型社会主義経済といいますか、計画経済の問題点の観察です。グリースパンが、ソ連で1920年代につくられた蒸気トラクタが動いているのを見て《中央計画経済には創造的破壊がなく、機械を改良していこうとする動機がないのだ》(p.185)と書いているのは印象的。

 ソ連の重要な組織には、国家を意味する「ゴス」ではじまる名前がついており、ゴススナブは国家調達委員会、ゴストルドは国家労働委員会、ゴスコムチェンは国家価格委員会などがありますが、最も重要なのはゴスプラン(国家計画委員会)。そのゴスプランの第一副議長は、プトレマイオスの天動説のように精巧な投入産出表を見せてくれますが、この投入産出表を信じていないだろうと感じます。《現実の経済では、投入と産出の関係はまず間違いなく、分析し推定する作業が終わるまでに変化している》からです(p.184)。

 グリーンスパンはレーガン大統領から、アメリカが推し進めていこうとしているスター・ウォーズ計画に対抗した場合、ソ連経済が崩壊するかどうか調査してほしいと依頼されますが、その結論は《経済に負担がかかりすぎることになるかどうかを予想することはできないし、ソ連当局にも予想できないと確信している》と報告します(p.188)。ゴスプランのデータは互いに矛盾が多く信頼性がなかったからです。結局、ゴルバチョフはスター・ウォーズ計画に対抗しようとはせず、交渉を求めて冷戦は終わります。

その後、東欧諸国はどんどんソ連圏から離脱しますが、各国の経済改革を主導したメンバーは、戦後の西ドイツで、価格と生産計画を突然撤廃したエアハルトに範を求めます(p.192)。中央計画経済から競争社会へと円滑に移行することは不可能で、ビッグ・バンしか方法はなかったわけです。チェコではさらに大胆に、国営企業をバウチャーの形で全国民に所有権を配る方法をとります(p.194)。それでも、計画経済が40年しか続いてこなかった東欧諸国では、少数ながら事業を経営した人たちが残っており、自由主義経済の再建は可能でした。

 一方、ロシアでは計画経済が70年続いたため会計士、監査人、金融アナリスト、マーケティングの専門家、弁護士などはおらず、エリツィンが国営企業と不動産を1億4400万人の国民にバウチャーとして配った際、機をうまくとらえた少数の人間が支配するようになった、と分析しています(.201)。さらに、私有財産を国が保護するのは悪だという考え方が残っていたため、国民はリスクをとろうとせず、オリガルヒ(新興財閥)がさらに台頭する、と。《成果が、政府やギャングにいつ強奪されるか分らないのであれば、リスクをとろうとする人はまずいない》からです(p.203)。

 にしても、日本でも『ガスプロムが東電を買収する日』が来そうになるとは、思いもよりませんでしたね…。

[第七章 民主党政権の政策課題]

 《長期的な経済成長を重視する姿勢を決して崩さなかったのが、クリントン政権の特徴であった》(p.217)と手放しの賛辞。

 しかし、ここらあたりからグローバル経済のグローバル化の影響がFRBの政策決定にも微妙な影響を与えていきます。インフレ率は低下し、企業の利益率は向上します。FRBは利上げを実施し、景気の軟着陸を成功させますが《1995年の軟着陸はわたしの任期中にFRBが達成したことのなかでも、とくに誇りをもてる点のひとつである》とのこと(p.226)。

 ルービン財務長官、サマーズ次官の関係も良好で、《経済史が大好きで、その知識を使って理論が現実的かどうかを検証した》(p.233)といいます。

 しかし、閑話休題になりますが、グリーンスパンが一度、論理実証主義について《ウィトゲンシュタインにはじまる哲学であり、知識は事実と数値からのみ得られるとする見方》(p.58)とサマリーするところがあるんですが、これは浅すぎるといいますか、寂しすぎるといいますか、後期の本は読んでないのといいますか、ね…。

[第八章 根拠なき熱狂]

IRRATIONAL EXUBERANCE(根拠なき熱狂)というITバブルを評した言葉は、グリーンスパンの言葉の中で、最も人口に膾炙したものでしょう。しかし、それにしてもわけのわからない言葉を使いますね。FRB議長は、市場が過剰に反応しないように遠回しな言葉遣いをしなければならないようですが、それにしても、すごい。グリーンスパンさんを風刺したマンガでも、この手の言葉遣いをからからうものが多かったと思います。

 1995年8月9日はネットスケープが上場した日で、ここからITバブルが始まりました。そして、12月になって《資産効果によって1996年の個人消費支出が500億ドル押し上げられ、経済成長率が加速する可能性がある》ことが報告されます(p.240)。ここにいたって、グリーンスパンは《情報技術が吸収され、その活用方法が学ばれていったことから、インフレ率が低く、生産性が上昇し、完全雇用が実現する状態が長期にわたって続く次期に入った可能性ある。「わたしは1940年代後半から景気サイクルをみてきたが、今回のようなことは一度もなかつた」。現在の技術革新は深さと持続性の点で、「50年か100年に一度のもののように思える」》という仮説を論議のテーブルに乗せるに至ります(pp.241-242)。

 これまで企業は、何週間も前の情報で経営判断をしなければならなかったため、予備の在庫や従業員などのコストを《不確実性をヘッジ》しなければなりませんでした(p.245)。しかし、リアルタイムで情報を得られるようになることで、不確実性は大幅に減り、ホワイトカラーに関してもレイオフが心配されるようになっていきます。グリーンスパンはこれを《創造的破壊の位側面 dark side of creative destruction》と呼んでいます(p.245)。

 やがてFRBは《アメリカ経済が健全性を維持して成長できる上限は2.5%だとする常識》に関しても見直しに入ります(p.248)。この際、グリーンスパンが焦点をあてたのは、やはり生産性でした。大半の企業が営業利益率が上昇しているのに、販売価格はあがっていない。これは生産性が伸びているからだ、というわけです。FRBは本来なら利上げをすべき局面にもかかわらず金利を据え置くことで、好景気を持続させることに成功しますが、《シュンペーターならおそらく、こう主張したはずだ。経済モデルも創造的破壊の対象になるのだ、と》(p.252)というのはカッコいい言葉ですね。

 株式市場に関してはルーヒン財務長官の「政府高官は公の場で株式市場にについて論じるべきではない」という話も紹介してくれます。『ルービン回顧録』では1)売られすぎか買われすぎかを判断する方法がない2)市場の力に勝つことはできないので得られるものはない3)裏目に出て信頼を失うリスクがある、ということだそうです(p.254)。現代の政府の限界性をよく認識している言葉ですよね。

[第九章 ミレニアム・ブーム]

 1990年代後半、アメリカ経済は4%、4000億ドルを越える成長を続けますが、これはソ連経済全体に匹敵するほどの数字だそうです。93年から00年までアメリカの標準世帯では年間実質所得が平均8000ドルも増加したとのこと。その結果、財政収支はみるみる改善していきました。

 《成功も管理しなければならない》(p.246)というのは意志を感じさせる言葉です。日本でも橋本大蔵大臣の時、赤字国債の発行をゼロにすることができましたが、その成功は管理されませんでした。

 グリーンスパンが主張したのは債務削減です。そして、少しでも黒字があれば何かの予算に使ってしまいたがる議会に対してクリントンが抵抗し、その方針は堅持されます。

 アメリカが好景気の持続と財政再建に成功していた時、アジアでは金融危機が発生します。韓国がIMF管理に入ってしまうほどの。なんと韓国は外貨準備を銀行に貸し出して、不良債権を支えるために使っていたのです。こうした危機は日銀幹部から米国に伝えられることになり、IMFは550億ドルの金融支援で支えることになります(p.274)。

さらには1998年8月、ロシアが債務不履行に陥ります。原因は原油が1バレル11ドルまで下がったこと。いま、原油は90ドル以上になっているんですから隔世の感ですよね。

 さらにはLTMC(ロングターム・キャピタル・マネジメント)が経営破綻します。LTMCは二人のノーベル経済学賞受賞者がつくったモドルを元に運用していたということですが、推定によると自己資金の35倍をヘッジしていたそうです。

 FRBは《健全で素晴らしい好景気と、人間の愚かさによって株式市場に生まれる気まぐれで投機的なバブルをどのようにして識別するのか》という新しい問題を考えるようになります(p.291)。その結果、緩やかな金利引き上げはかえって株価を上昇させるという結論に達します(p.293)。最善の方法は、財とサービスの物価を安定させるという中心的な目標の追求に徹することであり、金融引き締めにによって一気に伸びを完全に終わらせるしかない、と(p.293)。

 2000年問題は何事もなく終わりましたが、プログラミングの見直しによって、ドキュメンテーションのない大量のプログラムが更新されたことによって、その後の生産性が伸びたというのは新しい指摘でした(p.299)。

[第十章 下降局面][第十一章 試練の中のアメリカ]

 クリントン政権の後半になってもアメリカ経済は成長を続きますが、一時的な後退局面にも見舞われます。新しい《ジャスト・イン・タイムの経済では、金融政策もジャスト・イン・タイムで実行しなければならない》(p.310)として断続的な金利引き下げをFRBは実行します。

 そしてグリーンスパン自身は最後まで信用できなかったにせよ、2001年段階では、財政黒字が蓄積していく、という予想が大勢を占めるようになります。その額は毎年5000万ドル。2年で1兆ドル。これはFRBにとって、ひとつのジレンマとなります。金融政策のなかでアメリカ国債の売買という手段をとれなくなり、FRBは地方債、大黒政府債、モーゲージ再、入札割引窓口証券などを取り扱わなければならなくなるかもしれなくなったのです(p.311)。

 しかし、そうした心配は杞憂となります。01年からの景気後退による税収減と、のアフガン、イラク戦争による政府支出増大がダブルでやってくるからです。

 日本のデフレ経済について《不換紙幣のものでのデフレは、考えられないことだった。デフレに陥りそうになったとしても、印刷機をまわしてデフレの悪循環を防ぐのに必要なだけの紙幣を供給すれば問題は解決する》と語っているのは印象的(p.332)。

 また今のサブプライムローン問題にもつながりますが、03年からの金利引き下げなどによって住宅ブームがおこり、2006年には持ち家比率が69%という高水準となって《マイノリティの多くが初めての住宅を購入できるようなった》のです(p.334)。

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