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November 14, 2007

『精神現象学』読書日記#13

[C.(AA)理性][B.理性的な自己意識の自己実現]

 [A.観察する理性]は『精神現象学』の中で、最も読みにくく、ヘーゲル自身もなんでこんなところにドライブがかかっているのにわからないままに紙幅を増やし続けた箇所だと思います。

 しかしもそんな後にくる[B.理性的な自己意識の自己実現]は中盤の大きな山場といいますか、『精神現象学』全体を見晴らす大きな展望台ともよべるようなところです。

 これまでの議論を総括して《自己意識は物が自己であり、自己が物であることを発見した》《したがって、意識が積極的に関係する対象は自己意識である》(p.236)とまとめるところが有無を言わさぬ強引さ。そして、ここから『精神現象学』の奥の細道とも言うべき、精神の旅論にもっていくわけです。

 さらに《個々人は、自分の個別性を放棄し、共同体精神を自分の本当の魂とすることによつて、個として自立した生活を送ることができるのを意識している。が、一方また、この共同体は個々人の行為によってなりたつものであり、個々人によって作りあげられたものである》《ここには一方的なものはなにもなく、個人が自分の自立性を解体され、自分を否定されるようなに見えることが、その裏に、個人を自立させるという積極的な意味をかならず備えている》《万人がわたしをふくむ他人の力によって生かされているのがわかる。万人がわたしであり、ほたしが万人なのだ》(p.238-239)というヘーゲル先生ならでは主題に強引にもっていきます。

 《孤立した自分こそが本体だと感じられる。自己意志が個としてるあるというこのありさまは、むろん、共同体精神の一側面ではあるが、全体からするとごく一部分をなすにすぎず、あらわれたかと思うとすぐに消えさる体(てい)のもので、自分への信頼として意識されるにすぎない》(p.240)。個人の限界についての厳しい言葉です。

 西研さんが『ヘーゲル・大人のなり方』を書いたのも、こうしたモチーフだと思います。

 《見方を変えれば、自己意識は、社会生活の本体たる共同体精神を体現する幸福に、いまだ到達していないともいえる。観察の仕事から自分に還ってきた精神は、さしあたりまだ精神として自己を実現していないので内面的で抽象的な存在にとどまっている》(p.240)というのも厳しい言葉です。

 逆にいえば「外に向かって開かれている具体的な存在」こそが精神だ、といっているわけですから。

 こうした観点に立てば《道徳の要素は、失われた共同性に対立して目的にかかげられるというところまでは行ってないから、その素朴な内容そのままに肯定され、そのめざす目標として共同体精神がかかげられるのである》(p.242)というのは合理的。

 ぼくが個人的にヘーゲルの求め続けてきたのは、こうしたクリアカットさだと思っています。

 そして、その精神が《精神の可能性を予感しているにすぎない自己意識は、個としての精神こそ共同体の本質をなすと確信して社会へとむかうので、その目的たるや、個としての自己を実現し、その実現を個としても楽しむというところに置かれる》(p.242)という今でも通じるような言い方につながっていくんじゃないか、と思っています。

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