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November 01, 2007

『精神現象学』読書日記#12

[C.(AA)理性][A.観察する理性][c.自己意識と身体の関係 人相学と頭蓋論]

 ここは、ヘーゲル先生が生き返って著書を書き直すことができたとしたら、一括削除したくなるようなところではないでしょうか。「なんで人相学と頭蓋論なんだ」と誰でも思います。なんか、いきあたりばったり。

 といいますか、ここの[A.観察する理性]は全体に退屈です。次の[B.理性的な自己意識の自己実現]からは調子も戻ってくるんですが、とにかく[C.(AA)理性]に入ってからペースは乱れまくっている感じ。しかも、そのワケがなんとなく理解できるのが、この後の[B.理性的な自己意識の自己実現]で、ヘーゲルは誰もやったことがない抽象的な絶対知を探る"旅"を続けているんだ、という説明で分るというんですから、後の祭り。長い本って、どうしても中だるみがありますが、ここはまさにその極北のような感じです。訳者である長谷川宏さんも、自身で書いたコンメンタールともいうべき『ヘーゲル『精神現象学』入門』でスルーしているぐらい。

 出だしは悪くないんです。《個人は外にむかっても内にむかっても存在する》(p.209)、《個人は同時に行為の積みかさねとしてしか存在しえないから、個人の肉体は個人のうみだした自己表現だともいえる》(p.210)。いいじゃないですか。この硬質な感じ。

 しかし《この特殊な現実が個人の特殊な体形としてあらわれている》(p.210)あたりから「うーん」と思うようになり、p.212で人相学を一通り説明したあと《想定された精神の状態についてあれこれ思いこむのは、形をちょっと見ただけで、その内面の性質や性格を性急に判断するという、しろうと人相学によく見られるものである》(p.216)あたりになると、そんなこと最初からわかってるんだから書くなよ…という感じ。

 さらにプラトンが怒りは肝臓の働きだと言っているとか横道にそれた後(p.220)、《当面する知の探求に当たって、頭蓋骨だけに話を限定しても、まずそんなに不都合は起こるまい》(p.221)とさらにしょうもない深みに入っていきます。《脊髄を精神の住処と考えたり、背骨を精神の反映する場と考えるのは行きすぎである》(p.221)とか、《脳が生きた頭であるのにたいして、頭蓋は「死んだ頭」だとしうことだけははっきりいっておこう》(p.211)とか…。

 ここらあたりに自分で以前書いた古い書き込みを見つけたんですが「読者を想定できない。誰に対して説得しているのか?」みたいな感じで、ひとりで勝手に深みにはまってしまっています。

 後は、さすがに弁証法好きというか、両極端を対比させるのが好きなんだな、ということで《ユダヤ民族を評して、救いの門の直前に立っているがゆえに、もっとも神から見放されている、といわれることがあるが、実際、ユダヤ民族は自分の絶対のありさま-自己の本質-を自分のものとはせず、手のとどかぬ彼岸に置いている》(p.230)とか、《精神が深みに至ろうとしてイメージまでしか至りえず、そこに踏みとどまっている状態と、イメージに埋没した意識が自分のいっていることを理解できない状態との共存は、まさしく、高いものと低いものとの結合といってよく、自然の生物において、最高度に完成した生殖の器官と放尿の器官とが素朴に結びつくのと好対照をなす事柄といえる》(p.235)あたりは、「ヘーゲル先生、またやっちゃってる…」という感じで面白かったですが…。

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