『精神現象学』読書日記#11
[C.(AA)理性][A.観察する理性][b.純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察]
[a.自然の観察]に続く[b.純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察]も退屈の極みみたいなところなのですが、《ここでは、いわゆる思考法則のいい加減さを一般的に指摘しておくだけで十分である。思考法則の具体的な展開は純理の哲学たる論理学の仕事であって、そこでは思考法則の真のすがたが-一つ一つの法則は消えうせていき、真理は思考運動の全体たる知としてあらわれることが-あきらかにされるのである》(p.206)というところには、後年の『大論理学』『小論理学』の構想をかいま見させてくれているんじゃないかと思います。
『大論理学』は岩波の全集で文字を追っただけで何もわからず、『小論理学』も岩波文庫でまったく理解できませんでしたが、長谷川さんの『論理学』を読んで、個人的に「もしかして…」と思ったことがあるのです。
あまり、ヘーゲルのことでは、ぶっちゃけたことを書いている方をみかけないので、勘違いしていたら恥ずかしのですが、それは「『論理学』って全く論理学じゃなくって、弁証法の動きを説明しているだけだな」ということでした。ヘーゲルの哲学が孤立しているといいますか、あれは哲学じゃないともいわれるのは『論理学』の論理学らいからぬところといいますか、この『精神現象学』も文学臭がするようなといいますか、抽象的な絶対知を探るとはいってもヘーゲル個人の歴史を辿っているという側面がみえるからかもしれません。
無機的自然の観察で得られる概念は自分に還って単一な存在になれないとか(p.204)、やがて行動する現実的な意識という新しい観察領域が開けてくるとか(p.206)、球面をなす個人の世界は、そのまま二重の意味を-それ自体で存在する世界であるとともに、個人にとっての境遇(世界)であるという二重の意味を-もっているとか(p.208)、いわれても他人の夢の話を聞いているようで、《個人こそは世界の実体をなす主人公である。世界とは個人の行為の作りだす輪のことであって、そのなかで個人は現実の存在としてあらわれ、既存の存在と作りだされた存在とを統一する》(p.209)という『精神現象学』で何回も語られているような話に還っていくだけ、という印象がぬぐえません。
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