『精神現象学』読書日記#10
あまりにも新刊書に面白いのが見あたりませんので、約1年振りに復活いたします。とはいっても、リスタートが[C (AA)理性]からというのは正直、辛いんです。長谷川訳のp.160-235は、おそらく『精神現象学』の中でも、もっとも退屈な箇所です。読んでいてありがたみがないといいますか、こんなこといっちゃっていいのかね…といいたくなるような記述が続きます。ちょうど200年前の自然科学の知識の限界がかいま見えるといいますか、何も専門外なのに、こんなことを言わなければいいのに…と思わせるような有機体と無機物に関する考察が延々と続いたり。
[C.(AA)理性][A.観察する理性][a.自然の観察]
《理性とは、物の世界すべてに行きわたっているという意識の確信である。理性ををそういうもにとしてとらえるのが、観念論の立場である》として、それを端的にあらわしているのが《「わたしはわたしだ」という命題である》(p.161)といいます。そのわたしは《現実にある物の世界すべてに行きわたった唯一の代謝たるわたし》(p.162)であり《「わたしの大将と本質をなすのはわたしだ」》(p.163)というのです。
ここでいう観念論とは《物の世界に理性が行きわたっていることを認識する立場》(『入門』p.138)です。
ここまでは、いい感じなのですが、ここから後がいけません。[C.(AA)理性]は「A.観察する理性」「B.理性的な自己意識の自己実現」「C.絶対的な現実性を獲得した個人」と進んでいくわけですが、特に「A.観察する理性」は退屈の極み。
《以前には。、物のもとでのさまざまな知覚や経験が、おもいがけず意識に生じてきたのだったが、ここでは、意識みずからが観察や経験に乗り出していく》(p.168)と出だしは好調そうに見えるのですが、有機体の分析(反応力と感受性が有機体の質的な対立項をなす云々、p.188)は、ヘーゲル先生が批判した《感性のポテンツ化(増進)ー「ポテンツ化」などという用語を持ちだすのは、感覚的なものを概念的にとらえないまま、ラテン語に、しかも不適切なラテン語に移しかえるやり口》(p.193)に似ているんじゃなのいか、と考えてしまいます。
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