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March 02, 2007

『日清・日露戦争』

Nishin_nichiro

『日清・日露戦争』原田敬一、岩波書店

 シリーズ日本近現代史の3冊目。

 「はじめに」での《1894年からの10年間で戦争を三回経験する日本近代は、戦争という外圧と軍隊という内圧で国家と社会を変える経過を当然視するようになる》《近代日本が、欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになる》というあたりが問題意識でしょうか。

 また、本文ではあまり触れられていませんが、江戸時代から《日本が、世界を把握できたのは、まずヨーロッパ語を中国で漢訳したものを通じてであった》として地球、地中海、紅海、熱帯、病院、大学、文科、理科、幾何、代数、方程式、微分、積分、摂氏、華氏などは『世界地理書』と1623年の『職方外紀』の言葉を今でも使っているとして、日本製の新造語が大量につくられ輸出されたことは、そればかりが語られすぎていると批判しています。この「はじめに」だけを読んでも、司馬史観に代表される輝かしい明治時代というテーゼをとりあえずは学術的に徹底して壊しておこう、という明確な意図が感じられます。

 この本で学ばさせてもらったのは、明治政府の行なった憲法の発布と議会の開催が、とりわけトルコでの失敗の直後だけに、世界史の一こまとしても注目を集めており、アジアでの立憲制の成否というものを政府・議会とも意識していたことです(p.3-)。とはいっても、議会をめぐる攻防は超然主義をとり内閣を牛耳る元勲と、地租軽減という人気とりの政策を求める政党が、経費削減分を治水費にあてるなどして妥協する過程みたいなことばかりが延々と書かれていて、やや退屈。元勲の中では、議会への配慮を怠らず、政党の重要性にいち早く感づき、自らも政党をつくる伊藤博文は優秀だったんだな、と思います。

 日清戦争の経緯はざっと触れているだけですが、1894年の朝鮮の夏は暑かったそうです。

 そうした猛暑の中を18kgもの背嚢を背負い、武器・弾薬を装備して行軍した日本の兵士たちについて《日本の軍隊は、日清戦争からアジア・太平洋戦争終了まで50年間、アジアを歩き続けたと言っても過言ではない。その始まりである。アジアを歩き続けて私たちは何を見てきたのか、歴史を問う意味がここにもある》(pp.74-75)と書いてあるあたりは名文。また、食糧・衣類・弾薬・病人を運ぶために軍夫たちが大量動員されていたのは知りませんでした。軍人の10~20%だというんですから相当な数です。彼らは笠をかぶり、浅黄木綿の筒袖の上に、○○組と染められた法被と股引を着、草鞋履きという異相だったそうです。

 また、豊島沖海戦と黄海海戦によって制海権を握り、清国兵が武器を放棄して平壌まで逃げ帰った成歓作戦・牙山作戦の後、平壌も落とした後、講和条約で台湾を取得するための作戦を重視した、という流れがよく整理されて理解できました。

 台湾征服戦争に関しては、さらに司馬史観を破壊するようなデータを豊富に用意しています。司馬史観では日清戦争当時、台湾は界外であったというのが前提になっていますが、19世紀に入って台湾は茶業と糖業を中心に開発が進められ、基隆、高雄港が整備されたほか、1891年には台北からは全長120kmの鉄道も敷設されてそうです。著者は《こうした自主的発展にストップをかけたのが、1895年の台湾割譲だった》(p.99)とまで書きます。

 賠償金も多く獲れ、台湾も得たことで《日清戦争の結果、軍事大国の道を進むというのが今や議会の多数を占め》(p.121)るようになります。また、軍艦や大砲がドイツ製やフランス製よりも優秀であったことが豊島沖海戦と黄海海戦によって証明された英国には、どんどん軍艦の注文が入ります。日本が中国から奪った賠償金の46%にあたる1753万ポンドが海外支払基金として利用されるなど《日清戦争の果実を最もよく味わったのは大英帝国であった》(p.125)あたりもなるほどな、と。

 日本国内では青年団員の中から現役兵として入営し、退営後は在郷軍人会に入るというコースが定着し、青年会と在郷軍人会は共同して様々なイベントを催していったそうですが、こうした締め付けが行なわれる中でも、1882年から1896年までの15年間累計で7万4880人が徴兵失踪・逃亡者となっていたそうです(p.144)。

 一方、中国は財政的に破たんしている中で、日本に対して2億両もの賠償を支払ったことで、列強の金融に依存する構造になっていきます(アジアの金融を支えていた銀本位制が金本本位制に飲み込まれていったという事情もありましたが)

 日本軍は朝鮮で王妃である閔妃(ミンピ)を1895年に暗殺、国王高宗はロシア大使館に避難します。その後、皇帝となった高宗は列国による協同借款を成立させ、改革を進めようとしますが、日本は妨害。日本はロシアと韓満交換を持ちかますが、交渉は最後の段階で決裂というか、ロシア側のOKが日本軍の行なっていた電信線破壊のために伝わらずに頓挫。日露両国は《戦わなくてもよい戦争》を戦うことになります(p.208)。

大陸での陸戦は膠着します。《戦争前の短期的戦略構想は、未曾有の戦争展開によって微塵に打ち砕かれ、講和に持ち込めない状況に追い込まれていたのが、1905年の4月の日本政府の正確な位置である。事態を動かしたのは、五月の日本海海戦だった。日本海のどこかで日露両国艦隊か遭遇し、海上決戦にまみえ、日本海軍が一方的に勝利する、との三つがセットにならねばならない予想外の出来事が現実となり危惧された戦争の持久化はほぼ消えた》(p.219)ことで講和が結ばれます。まさに日露戦争は薄氷を踏む勝利だったわけです。

 日清・日露戦争を振り返れば、まず日本が目指したのは朝鮮を支配下に置くことでした。台湾割譲はオマケだったわけです。日本の朝鮮支配は過酷で、民衆は鴨緑江を越えて満州に逃げ、そこから朝鮮へ働きかけようとしますが、それを阻止することが1920-30年代に日本の課題となっていく、というところで、この本は終わります。

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Tracked on March 02, 2007 at 05:13 PM

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