『ロング・グッドバイ』
『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー、村上春樹(訳)
手に取った瞬間、その厚さに驚きました。
なんと、本文だけで533頁もあります。それに90枚の解説もついているから、579頁となおさら厚くなるですが、同時に、これまで親しんできた清水俊二訳はいったい何だったんだろう、という気分になりました。同じ早川書房から出ている清水俊二訳は元々の単行本が370頁で、文庫でも545頁。
初めて清水訳が抄訳といいましょうか、かなり短くした翻訳だったことを知りました。わたしは抄訳がは許せないタチなんで、瞬間、すごく不愉快になったんですよ。だって「あの感動はニセモノだったのか…」みたいになっちゃうじゃないですか。以前、翻訳した時も監修の先生からは「絶対に省いてないよね」というのをしつこいぐらい聞かれたということもあるんでしょうけど、正直「ちょっとな」という気分になりました…。
でも、巻末に納められている村上春樹さんのフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』とからませたチャンドラー論を読んで、少し救われた気になりました。本国での出版から4年しかたっていない1958年当時は、まだチャンドラーの価値への認識はほとんどなく、ミステリー、しかも粗製濫造も目立ったハードボイルド小説などは《筋と雰囲気さえちゃんとわかればいい》(p.566)ということだったかもしれず、省かれた部分は多いけれども、生き生きとした物語となっており、《古き良き時代ののんびりとした翻訳というか、細かいことにそれほど拘泥しない、大人の風格のある翻訳である》と書いてくれています。
多くの人が、感想を書くでしょうから、ぼくは、ロバート・アルトマンの映画との関係だけに絞って書いてみようと思います。
一応、ミステリーに分類される小説でもあり、ネタバレにもなるので、これ以下は、それを承知の上でお読み下さい。
今回の村上訳でハッキリわかったのが、チャンドラーの第一世界大戦時の負傷経験とアルコールへの逃避。それがテリー・レノックスとロジャー・ウェイドに濃厚に反映されているんです。清水訳は読み返してはいませんが、それほど、テリー・レノックスが戦争中の負傷で心にも大きな傷を負ったことは印象に残りませんでした。でも、村上訳では、それがハッキリとわかるんです。チャンドラーもそれが原因でアルコールには大きな問題を抱えていました。
『ロンググッドバイ』のラスト、テリー・レノックスと再会して別れるマーロウを最もデフォルメしたのは、さきほども触れたロバート・アルトマンです。なんと映画のラストでマーロウはレノックスを撃ち殺してしまうんです。
ぼくは、映画としては、それもアリだと思ったのですが、公開された当時、友人たちと話した時も、単に心情的に許せるか許せないかという論議だけで終わってしまいました。
しかし、村上訳を読んで、それは第二次大戦までの帰還兵と、ベトナム帰還兵の扱いの差なんだとハッキリとわかりました。
アルトマン版の映画は1970年代に物語が設定されていたんです。
そして、第二次大戦までの帰還兵は、いろいろあったんだろうけど、ヒーローなんだから、とまだ社会が暖かく迎えてくれたわけですが、ベトナム帰還兵はそうではありませんでした。ベトナム帰還兵は逆に神経がおかしいとみなされ、犯罪のを犯した末に撃ち殺される可能性だってある、ということをアルトマンは訴えかけたかったんだとぼくは観じた次第です。
チャンドラーはハリウッドに招かれて映画史上に燦然と輝く『深夜の告白』の脚本も書きましたが、そうしたオリジナル脚本のひとつに、第二次大戦の帰還兵が殺人事件にからむ『青い戦慄』という映画もあります。チャンドラーのオリジナル脚本では帰還兵・ベンディックスが実は真犯人だったという設定になっていましたが、検閲の末、別の人物が犯人に変更されて公開されたといういわくつきの映画なのですが、この『青い戦慄』も観たいと思いました。
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