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December 17, 2006

『硫黄島からの手紙』

Ioujima_1

 佳作。

 とはいっても、元々、クリント・イーストウッド監督は大作を得意とする作風ではないので、しみじみ、見せてくれます。でも、人の良さが出てしまって、なんていいますか、日本人を尊敬しすぎというか、悪い日本人が少なすぎる。50年代か60年代に製作されたハリウッド製の第二次世界大戦モノに出てくるとんでもないドイツ人みたいなのが一人ぐらいいてもいいけど、そんな悪人はせいぜい犬を撃ち殺す小物の憲兵ぐらいですからね。

 出だしは快調。クリント・イーストウッド監督は馬の蹄の音から拍車のシャンシャンとなる音だけを聴かせる長いセリフ抜きのオープニングをきめたり(『荒野のストレンジャー』1972 )、墓を掘るリズミカルな音ではじめたり(『許されざる者 』1992 )、映画という総合芸術において、効果音の使い方を特にオープニングで工夫している職人さんだと思っているんですが、この映画も打ち寄せるリズミカルな波の音が印象的です。

 演出で迫力があったのは二宮和也扮する西郷の所属する部隊が自決を迫られるシーン。手榴弾のピンを引きちぎり、鉄兜にガツンとぶつけてから、それを胸に抱えて自決する日本人兵士たち。ぼくたちのお祖父さんたちは、こんなくだらない死に方を強要されたのか、と唯一悔し涙みたいなのを流しそうになりました。日本の陸軍最低。

 そこから二人だけ脱出するセリフのやりとりはフラウィウス・ヨセフスがユダヤ戦争で異邦人への投降をよしとしない守将たちが自決を決議した後、最後の2人になったところでもう1人の兵士を説得して、2人で投降したという物語を思い起こさせます。

 山本七平さんは自身の経営する版元から翻訳出版した『ユダヤ戦記』のあとがきとも、宣伝ともつかない文章の中で、第二次世界大戦の日本とユダヤ戦争のユダヤは似ている、と書いていました。ファナティックな熱狂から戦争に突入し、緒戦では奇跡的な勝利をあげるものの、その後は地力に勝る世界帝国(ローマ、アメリカ)に圧倒され、軍は虐殺され、最後には玉砕する過程はそっくりだ、と。映画の中で西郷ともう一人だけが集団玉砕している部隊から離脱する場面に、イーストウッド監督がどれだけヨセフスのイメージを投影していたか分かりませんが、同じような洞窟からの脱出劇であるということを考えても、どこか、頭の片隅にはあったのかな、と思います(ちなみにヨセフスの『ユダヤ古代誌』 『ユダヤ戦記』『自伝』の内容は欧米ではかつて常識でした)。

 ヨセフスと一緒に投降した兵士がどうなったかは知りませんが、硫黄島からの手紙ではさらなる悲劇が待っています。もしかしたら、ユダヤ戦争よりも悲劇的だったということが、説明抜きで分かることを欧米の観客には期待して脚本がつくられているのかもしれませんが。

 クリント・イーストウッド監督は朝鮮戦争に従軍しています。しかし、本人の口からは、その時の体験はあまり語られていません。マイケル・チミノのデビュー作となった『サンダーボルト』では、朝鮮戦争の元英雄サンダーボルトを演じ、『ハートブレイク・リッジ』でも朝鮮戦争で名誉勲章に輝いたハイウェイ軍曹を自らの監督作品で演じ、その深い影響を作品に投影していますが、あくまで間接的な印象のまま。

 でも、逆にそうした実戦に参加した体験からなのでしょうか、これまで、あまりマトモに描かれていなかった敵対する兵士たちを尊敬して丁寧に描いている、という感じがしました。しかし、その丁寧さのあまり、尺は141分と2時間オーバーとなり、商業映画としてはちょっと長目です。ハリウッドの現役最高の監督が日本語で撮るという冒険はすごすぎで、たしかに、いらないエピソードなんていうのはないのですが、いつもの効率的な語り口の旨さが見えなかったのは残念な気がします。

 しかし、日本人兵士には日本語でしゃべらせるという、アタマでっかちの文化多元主義を尊重するような中途半端な監督にはおそらく考えることもできなかったことを平気でやってのけるイーストウッド監督の力量というのが、どれほどすごいか、ということは改めて感じました。

 栗林中将が水、食料、弾薬もなくなった後、最後の突撃の際に発する「余は常に諸子の先頭に在り」「何年も経ったら、君たちの事を皆が思い出し、魂に祈りを捧げてくれるだろう」というセリフが流ちょうな英語で語られていたら、どれほどの感動が残ったでしょうか。あれは渡辺謙が日本語で語らなければならないセリフでした。そもそも脚本の破綻していた『ラストサムライ』や、日本語が不自然すぎた『シン・レッド・ライン』 なんかとは大違い。

 二宮和也は日本のマスコミが騒ぐほどではないにしても、これだけのハリウッド映画初出演で準主役を自然に、しかも、時にはエモーショナルに演じきっている姿には感心しました。中村獅童は日本刀を振り上げた角度などに歌舞伎の底力を感じます。渡辺謙は相変わらず素晴らしい。バロン西を演じた伊原剛志は二宮和也以上にジャンピングボードになるかも。二宮和也と仲のいい戦友を演じていたる松崎悠希が素晴らしかった。イーストウッド監督の作品は脇役がキャラ立ちしているというか、印象に残るんですよね。

 ハリウッドでは1本の映画で2本つくるというか、同じスタッフを遙かなロケ地にもう1回集めるのなら、もう一本つくってしまおう、というやり方が効率的な映画のつくり方として定着しつつあるのかもしれませんが、それを逆手にとって『父親たちの星条旗』とセットになった「日本映画」の佳作を撮ってしまったイーストウッド監督の凄さはただものではありません。

 えー、ということで、先ほども紹介した、山本七平さんがご自分の山本書店刊のヨセフス全集に寄せて書いた文章です。これに対して、地に足のついていないポジションから批判することは、個人的には考えられません。

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敗戦となり、屍体の山のフィリピンから焦土の故国へ帰還・復員したとき、まず関心をもったのが敗戦と亡国の記録であった。その古典、二千年来読みつがれた書といえばヨセフスの『ユダヤ戦記』である。
一読してまず驚いたことは、その経過が不思議なほど太平洋戦争に似ていることであった。いわば世界的視野をもつ組織的大帝国と、自らの信念にこもることにより半ば盲目的となった孤立文化の少数民族との死闘である。さらに、緒戦の奇妙な”大勝利”で神州不滅的な狂信へと進む過程、和平派の沈黙、無謀な特攻的自殺攻撃が似ているなら、解放者と称する者が同胞に遠慮なく弾圧を加えていく過程も似ている。また、各拠点で起った玉砕、最後まで降伏しなかったマサダ砦の九六〇人の集団自決も似ている。一方、これに対するローマ軍の戦法はまことに組織的で少しも無理はせず、圧倒的な物量を投入して着々と地歩を固め、作戦が困難な冬には冬営を設置して休養するところなど、アメリカ軍にそっくりである。
日本とユダヤは非常に違う。歴史も違えば文化も違う。それなのになぜこのように似た点が出てくるのか。この疑問は後々まで私の大きな宿題となり、日本人の思想や伝統、さらにさまざまな規範を探究する端緒となった。だがこれは私だけの宿題であるだけでなく、未来に目を向けるすべての日本人の宿題のはずである。私は、ユダヤ人のその後の悲劇に日本人が落ち入らないためにも、日本人との対比において、ユダヤ戦記を是非読んでほしいと思う。
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» ユダヤ戦記〈2〉 [OKULO]
 これが人間の姿だ。『ユダヤ戦記』第2巻はユダヤ戦争の佳境を描いている。ヨセフス自身が指揮したガリラヤ地方の陥落、ヨセフスの投降と捕縛、ウェスパシアノスのローマ皇帝即位、エルサレムの内部抗争、ティトスのエルサレム包囲がこの巻の主な内容だ。  特にティトスのローマ軍がエルサレムを包囲している時に、エルサレム城内ではゼーロータイ(熱心党)のヨアンネスと野盗のシモンとがお互いに城内を勝手に占拠して争っていた。こんな状況ではローマ軍に勝てるはずがない。しかも包囲戦が行われている城内ではヨアンネスとシモンの... [Read More]

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