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November 13, 2006

『『新約聖書』の「たとえ」を解く』

Kato_bible

『『新約聖書』の「たとえ」を解く』加藤隆、ちくま新書

 ぼくごときが云うことではないかもしれませんが、教養の基礎としてキリスト教の新約聖書、できればユダヤ教の聖典でもある旧約聖書はある程度、知っておいた方がいいと思うんですよね。読書や演劇、映画でも深く味わうことができます。もちろん西洋哲学はキリスト教抜きには考えられません。

 でも、やたら解説書は出ているものの、抹香臭いのは読む気が失せますし、中には学術的な皮を被ったトンデモ系の本あり、なかなか良書を選択して読むということは難しいと思います。そんな中で、加藤隆先生のご著書、訳業をなされた本というのは、どれも全く抹香臭くなく、しかも学術的でありながら、知的好奇心も満足させてもらえる良書が揃っています。

 今回の『『新約聖書』の「たとえ」を解く』は書き下ろしとしては久々のものではないでしょうか。これまでは新約聖書全般に関する概説のようなものが多かったのですが、今回は解釈の冴えといいますか、驚きの解釈をみせてくれます。

 例えば有名な「良きサマリア人」の物語。ルカ伝に出てくる「たとえ話」ですが、ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追い剥ぎに襲われた、と。その人は、追い剥ぎに身ぐるみはがされ、半殺しにされた上、その場に放置された、と。たまたまその道を下って来たある祭司はその人を見ると、道の向こう側を通って行った、と。レビ人(聖職につく人々)も同じようにしてしまった、と。しかし、通りがかったあるサマリア人(ユダヤ人からは差別されていた人々)は、その人を見て憐れに思い、その人を救いました、と。イエスは「誰がその人の隣人だと思うか」と祭司たちに問いかけて終わる、というペリコーペ。

 普通はといいますか、ほぼルカが書いてから1900年以上、このたとえは「隣人愛を実践しましょうね」という意味に解釈されてきました。最も成功したカルトともいわれるアメリカでは各州に「良きサマリア人法」というのまであるし、Good Samaritanと名付けられた病院も多くあるほど。

 しかし、本当にそうなの?と加藤先生は静かに解釈を進めるのです。だいたい、イエスがこのたとえを話すキッカケとなったのは、律法学者の「何をすれば、私は永遠の命を受け継ぐでしょうか」という問いかけです。しかし、この「受け継ぐ」は一人称単数なんだそうです。普通、ユダヤ教というのは共同体としていかに救われるか、を追求してきました。しかし、この律法学者は自分が救われることが中心的な関心事であり、そうした場で語られた「たとえ」なわけです。イエスは逆に「どう聖書を読んできたのか」と問いかけますが、律法学者の答えは「全力をつくして神を愛し、隣人を愛することだ」というものでした(この一人称で救いを求める問題ですが、4つの福音書の中で最も個人的な救いの方向に向いていたといわれるヨハネが生まれた大きな背景といいますか時代の雰囲気は、こんなところにも感じられるかもしれないかな、なんてつまらぬことも考えてしまいました)。

 その文脈で考え、さらに「良きサマリア人」の直後に置かれている、これまた有名な「マリアとマルタのエピソード」を考えると、実はイエスが云いたかったのは「神を全力で愛することと、隣人愛のどちらが大切か」という問題で、神を全力で愛することが、隣人愛よりも上だということかもしれない、というんですね(詳しくは本を読んでください)。

 こんな解釈では一般の教会などでは有難味がなくなってしまうでしょうかもしれません。北森嘉蔵さんなんかは『神の痛みの神学』なんかでは、だいたい「全力をつくして神を愛し、隣人を愛すること」というふたつの答えがあることがそもそもおかしいが、よく考察してみると(その考察過程は忘れてしまいましたが)、弓矢の的がふたつ重なり合っているような構造になっている、なんてことを一生懸命書いていたような記憶があります。

 とにかく、加藤先生はこうしたワクワクするような新しい解釈が、丁寧なコイネーの読みこみから浮かび上がる例を「放蕩息子のたとえ」「宴会への招待のたとえ」「種まきのたとえ」などでも読ませてくれます。

 例えば「宴会への招待のたとえ」で神とおぼしき人から追い出される礼服を着ていなかった人は単数形なのに、宴会に出席している悪人は複数形で書かれていることを指摘し《キリスト教共同体には「悪人たち」がまだ含まれていることが確認されている》(p.140)ことや、マルコの「種まきのたとえでは」、マルコは精霊を受けた者だけに価値があるという立場に立っており、こうした者には教え(神の言葉)を伝えても効果がないために「たとえ」でイエスは語るという意味をもたせている、なんてあたりもシビレます。

 どのみち、宗教というものは批判され、批判され、ずっと批判され、しかしそうした中でも残るものがある、というカタチでなれば意味をなさなくなると思います。そういった意味でもキリスト教というのは、マトモなんじゃないか、と改めて感じたりして。

「マリアとマルタのエピソード」
イエスがある家にやってきて、そこにはマリアとマルタという姉妹がいた、と。尊敬するイエスがやってきたってんで、マルタは、もう台所にたちっぱなしで一生懸命もてなした、と。ところが、マリアはイエスのそばに座りこんで、手伝いもしやしない。マルタがマリアの態度に文句をいいかげん頭に来て、「ちょっとは手伝いなさいと言ってやってください」と怒ると、イエスは「あなたはいろいろなことを心配しているが、必要なことはただ一つだけで、マリアは良いほうを選んだのだ。それを取り上げてはならない」とイエスはマリアをほめて、マルタを叱った。

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Comments

松崎様

 千葉大学の加藤隆です。お久しぶりです。
 上のコメントを読ませていただきました。
 今の旺盛に活動を続けておられるようで、
頼もしく思いました。

 上のアドレスでブログを開設しました。
まだ原初的な状態ですが、この「たとえ」の
本についてコメントを少し書きました。
 よかったら見てみてください。

 またこのことに限らず、御意見などお聞かせ
ください。

とりあえず。

敬具

加藤隆

Posted by: 加藤隆 | February 16, 2007 at 08:50 AM

加藤先生、お久しぶりでございます!コメントありがとうございました。
最近、ギリシア語の能力が急速に衰えてきたのを感じ、朝、少しだけ時間をとって、文法をおさらいしていたところです。
翻訳なされた最新刊『カトリシスムとは何か キリスト教の歴史をとおして』も読んでみます!

Posted by: pata | February 16, 2007 at 06:10 PM

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