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November 16, 2006

『三位一体モデル TRINITY』

Trinity

『三位一体モデル TRINITY』中沢新一、東京糸井重里事務所

 中沢新一さんはキリスト教のことを語らせると冴える。仏教に関しては自分が入りこんでしまっている感じで、実は対象との距離感がつかめないような文章が多いと思うが、キリスト教に関しては、突き放しているというか、対象化できている感じがする。

 これまでも『はじまりのレーニン』岩波書店、1994『宗教入門』マドラ出版、1993などで痛快な議論をしてきたけど、なんと今回はドラッカーのような感じでその理論をビジネスに直接役立てちゃおうという暴挙にちかい本。

 ざっくりいえば、三位一体モデルは世の中の仕組みを理解する上で、とても役立つ、と。資本主義の場合は貨幣が聖霊に相当し、聖霊が自由に動き回ることで価値を増幅させてしまう、と。最後の方で、中沢さんの講義を聴いた様々なギョーカイの人たちが「よく考えてみると…」という感じで、そのモデルを当てはめていくわけです。

 例えば教育であるならば「父は成功や幸福という概念、子は予備校、聖霊は人気教師」、広告業界であるなら「父は企業の社会的価値、子は企業、聖霊は広告代理店」、スポーツならば「父はルール、子は選手、聖霊はコロシアム」とか。図式化すると、トリックスターである精霊がハネ廻ることによって様々な業界で価値が増殖するのだけれど、そのベースとなるような父と子も必要だ、みたいな。

 なんかこう書くとつまらなく感じるかもしれませんが、《増殖力と幻視力と社会的コントロールという三つの原理が、がっしりと組み合わさって、わたしたちの世界はつくられていると言っても言い過ぎではないわけで、その意味では「三位一体モデル」は、人類に普遍的な思考模型なのです。キリスト教はたまたまというか、賢くもというか、一神教にあるまじきいいかげんさでというか、とにかくこの三つの原理を「聖霊=増殖力」「子=幻視力」「父=社会的な法」と言いかえて、「三位一体」という教義(ドグマ)をつくりあげたわけですから、キリスト教には良い悪いを超えた強さがあります。いま人類がやっている資本主義というものだった、このキリスト教の思考を下敷きにしています。そのため、いまだにとてつもないしぶとさを持っています》(p.102)という中沢さんの最後のまとめなんかをご紹介すれば、多少は面白さがわかっていただけるでしょうか?

 そして結論的に言えば、どの業界も《ものごとに一貫性や同一性を与える原理》(p.17)である父の存在が希薄であり、実は、いま社会をコントロールする原理が探しもとめられているんじゃないのか、というあたりが問題意識ではないかと思うのです。でも、そうした一般論に広げる前に、個々の業界の「三位一体モデル」は何かを考え、そこから薄まってきている「一貫性や同一性を与える原理」を考えてみることが重要なんじゃないかということで、最後に講義を聴いた人たちの座談会なんかも載せられているつくりになっているのかな、と。改めて教育ということでは、学校教育では「三位一体」に該当するものが見あたらず、しょうがないから予備校をモデルに考えたなんていう発言をみると、公教育というのはかなりヤバイ状況になっているのかな、と思います。

 煉獄という大発明なんてあたりではル=ゴフ先生、ばくちは神意を聞く芸なんてあたりは網野おじさんに触れないと反則…と思うけど、それは短い講義だから仕方ない。

 ただ、この本を読まれた方が、もっとよく理解できるように、中沢さんの本から多少フォローしますと『宗教入門』では三位一体ということがいわれたのはキリスト教という宗教が、神の子が殺され、復活するというパラドックスを中心に抱えているからなんだというんですわ。だいたい「イエスは神の子」ということになっているけど、神なのか子なのか。より神に近いのか、それとも人間の方に近いのか。もし神そのものだとしたら生きている時の肉体はなんだったのか。ひょっとしてイリュージョンをまとっていただけなのかも…など当初から議論百出したわけです。ということでニケア公会議でだいたい中庸なあたりを正統に決めて、新約聖書に含まれる文書も決めたわけです。つまり「イエスは神の子」という命題を中心に据えたとたんに発生する、様々な論理的可能性を封じ込めたわけなんですが、もともと不安定だからいくら押さえ込んでも動きはダイナミックになるわけで(そうした動きをさらに加速させる聖霊という概念まで持ち出してきたわけですし)、最終的にはニーチェに「神は死んだ」と宣言されてしまいます。

 しかし、それでも、三位一体のモデルは残っていて、実は「ものごとに一貫性や同一性を与える原理」「社会をコントロールする原理」の再構築が課題になっているだけじゃないのか、なんて感じで、今日、紹介した本に戻る、と。途中で触れているセックス・ピストルズのようにビートルズなんかキライだ!と狂ったチューニングのギターで演奏しても12音階のワクからははみ出ることはできなかったみたいに、思考の構造そのもののような強さを三位一体モデルはもっている、と。

 そして、資本主義を発達させた西方キリスト教に対して、なぜロシア正教など東方教会はそれを生み出さなかったのか、という問題については『はじまりのレーニン』の第五章「聖霊による資本主義」を読んでみてください。《東方では、神は無底の深みに人をひきずりことみ、その本質は無そのものであった。その無のなから、矛盾にみちた「父と子と聖霊」による、三位一体の「有(存在)」の神がたちあらわれる》という深みをもっていたのに、西方教会はニケア信条の一文に「聖霊は父から発出し…」に「フィリオクエ(filioque、子とともに)」という短い文句をつけくわえることにより単純化し、有である神と子から聖霊が流出することで具体的な世界が発出し、増殖しはじめるというあたりの議論が、しつこく書かれています。

 ということですが、『キリスト教の歴史』小田垣雅也、講談社学術文庫は文庫本で258頁というコンパクトさで、わかりやすく流れを説明してくれていますので、さらにちょっとフォーロー。

--------Quote--------

文化と倫理はある意味では対立した概念である。そしてこのような事情に対応してあらわれたのが預言者である。

「ハヨネによる福音書」は他の三つの福音書ては性格が違っていて、その意図は一口で言えば、仮現論(Docetism)に対する反対である。

三位一体(trinitas)という言葉を初めて使ったのは先に触れた弁証家テルトゥリアーヌスで、その動機はグノーシス的二元論的神認識に対する反対であった。

コンスタンティノポリス総会議で成立した父・子・聖霊の三位一体論に関して、聖霊は父「および子より」(フィリオクエ filioque)発出するのか、それとも父のみから発出するのかという論争である。五八九年の第三回トレドー会議で前者が採用されたが、これは西方教会の見解であり、東方教会は後者の見解をとっている。この見解の相違は東方教会が論理的であり西方教会が実際的であることから理解できる。

化体説を教会の教義としたのはインノケンティウスによって、一二一五年のラテラノ会議においてである。そして彼はパンと葡萄酒がキリストの肉と血になるのはローマ・カトリックの司祭の祝福を通してのみであると主張した。

アンセルムスがスコラ神学の父でありながら、きわめて福音主義的な信仰理解を持っていたことを示している。

アンセルムスが言わば実存的であり、理性と信仰は思惟の方向が逆転し、言わば理性と信仰は質的に断絶しているのに対し、トマスは主知主義的である。この理性と信仰の間に断絶がないことが、後のプロテスタントの福音主義的立場に対するカトリックの信仰の特徴でもある。

ハルナックが「神秘主義は常に同じで民族的、信仰告白的区別はない」と言うのも、神秘主義が人間の認識が成立する以前の根源にかかわれものだからであろう。

ルターの意識が宗教的なものであって人文主義的なものではないことは、宗教改革の強みであると同時に弱みでもある。

元来カルヴァンの思想は、神の栄光と権威のみが強調されて神の愛が語られることはきわめて少ない。

ドイツの宗教改革が実存的、スイスのそれが社会的であったとすれば、イギリスの宗教改革は政治的である。

啓蒙主義はそれ自身の発展として、カントに至って理性の限界を自覚し、「信仰のみ」の宗教改革の立場に回帰する可能性を持つに至った。

現代に至るまでアメリカ社会が進歩性と同時に、特に宗教的な保守性を持っているのは、エドワーズの影響である。

シュライエルマッハーによって、信仰が理性や道徳のことではなく、情緒と憧憬の問題だというロマンチシズム的キリスト教が出現した。

神学よりも哲学が優先し、その哲学が当時発達しつつあった歴史学と結びついてできたのが自由主義神学である。この場合の自由の意味は教会的権威からの自由ということである。

トレルチの方法は比較宗教学である。すなわち一九世紀末葉になって、やっとキリスト教以外の宗教の存在が、ようやくにして、人々の目に入ってきたのである。

一八一四年ピウス七世は(ナポレオンによる)フォンテンブローの幽閉からローマに帰還し反動的政策を開始した。すなわち教皇至上主義の推進である。

ナチズムとの闘争を通して、弁証法的神学は地上的権力が悪辣なものになる場合、それと闘い人間性を守る根拠は合理主義的思考の中には求められないことを鮮明にした。

--------End of Quote--------

つまらない議論かもしれませんが、ニケア信条に「フィリオクエ」を加えて、東方教会の三位一体論を単純化した西方教会ですが、そこらあたりの論議にはヨハネ15:26の「ο πεμψει ο πατηρ εν τω ονοματι μου(父がわたしの名によってつかわされる)」が活用されたのかな、なんてことも以前、チラッと考えたことがあります。モーリスという有名な注解者は「パラクレートスは父よりおくられる。しかし、子の名によって。15:26では父の元から、子によっておくられることになっている。しかし、そこには大きな差はないだろう。聖霊は両者から送られるのだ」としていますが、14:28には「父はわたしよりも偉大な方だからである」なんてキリストの地位を格下げするアリウス派の根拠となるような一文もあるんですから、聖書も複雑というか解釈次第という感じですよね。

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