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August 08, 2006

『精神現象学』読書日記#9

意外と再読すると感動が少ないというか、やっぱ新刊書も読みたいということで『精神現象学』の読書日記は停滞しているのですが、ちょうど停滞していたところを『西洋哲学史 古代から中世へ』の中で取り上げられていたヘーゲルのストア派に対する低い評価みたいなところを意識して読むと、[B.自己意識][IV.自己確信の真理][A.自己意識の自由][ストア主義、懐疑主義、不幸な意識]もより分かりやすくなるんだ、ということを教えられたと思うので、チラッと再開してみます。

 しかし、やっぱりプロの哲学研究家の方は違いますね。ぼくみたいな素人の本好きは、『哲学史講義』の中巻「独断主義と懐疑主義」で≪ストア派とエピクロス派にはじつは本来の哲学的思索が見いだされず、一面的で制約された原理の適用があるだけです≫(長谷川宏訳、p.215)なんて書かれていたところを読んだ記憶はあるんですが、それの応用がききません。『精神現象学』のこの場所でそういったストア派などへの低い評価(もちろんヘーゲルの個人的な評価)がヘーゲルの考える絶対知へと向かう意識の経験の旅で、どのように位置づけられるのか、なんてことを考えずに文字だけ追っていたという感じで、本当に情けない。

 主人と奴隷の話のところで『自分が自主・独立の存在であることが自覚され、こうして、自主・独立の過不足ないすがたが意識にあらわれ』た奴隷は、自己意識の自由を獲得するに至るのですが、≪こうした自己意識の自由が、明確な理念として精神史上にあらわれたものが、周知のように、「ストア主義」と呼ばれる思想である≫(p.140)のです。

 しかし、ヘーゲルはあまりストア主義に対する評価は高くありません。≪ストア主義は物への隷属関係をきっぱりと断ちきり、純粋に普遍的な思考の世界へと立ちもどることによって自由を獲得≫しているだけであって≪生活臭のない単一な思考の世界に引きこも≫って≪自由といっても、頭のなかの自由であって、生きた自由がそこにあるわけでない≫として、≪なにが善であり真であるか、という内容を問う問いに、ストア主義は内容なき思考をもって答えようするほかない≫≪ストア主義がたえず口にする真と善、知恵と徳、といった一般的なことばは、全体として人の精神を高揚されるものではない≫とまで書きます(pp.141-2)。

 そして懐疑主義についても≪「懐疑主義」はストア主義が頭のなかだけで考えていたことを実行に移し、思考の自由とはどういうことかを現実に経験する≫(p.142)だけのものだ、と醒めた書き方をします。ただし≪懐疑主義において、意識は、本当は自分が内部に矛盾を抱えた意識であることを経験する≫(p.145)わけですが。

 ヘーゲルが主人と奴隷の後に[ストア主義、懐疑主義、不幸な意識]をもってきたのは≪ストア主義の自己意識は自分の自由を守る単一の意識であった。懐疑主義では自由が現実世界に乗りだして、明確な輪郭を持つものを否定していくが、ために意識が二重化し、二つの意識となっている。こうして、以前は二人の個人-主人と奴隷-に割りあてられていたものが一つにまとめられる≫(p.146)という流れだったんですね。そして、これは≪不動者(神)のありかたとして示されているのは、分裂した自己意識が不幸な思いつきをいだきつみずから経験したところのものである≫(p.148)と。

 そして、この後に考察されるのが≪個の意識でありながらすべての物に絶対的に即応している、という意識の確信≫(p.158)である理性なわけです。

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