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July 23, 2006

『日本宗教史』

Nohon_shukyoshi

『日本宗教史』末木文美士、岩波新書

 丸山真男の古層論にひっかけて、歴史的に形成されてきた日本の宗教を俯瞰する、という内容。

 蒙を啓かれたのは、日本が「神の国」であるという論議は本地垂迹説の原理(東の果ての島国である日本の場合、仏は八百万の神々という権現で現れる他なかったという考え)からきているのだが、それは本来、日本の民は仏ではなく二流の存在である「神」で救われるしかなかった、という意味であり、その後、蒙古襲来というナショナリズムの高揚を経て《日本は神によって守護された特別の国であるという意に用いられるになる》(p.66)というあたり。ここは例外的ともいえるほど、丸山の云う<古層>はずっと通奏低音のように流れているのではなく、歴史的に徐々に形成されてきたのだ、という著者の主張が見事に証明されているところです。

 ところが、本書は日本の宗教史を

1 仏教の浸透と神々―古代
2 神仏論の展開―中世
3 世俗と宗教―近世
4 近代化と宗教―近代

 歴史を追って説明していくんですが、近世と近代はあまり面白くないのが玉に瑕。少しずつ堆積してきた<古層>が、ある日、遠くから断面を見ると、まるで違ったもののように見える、みたいな驚きをもって感じたのは「神の国」ぐらいなんですね。ないものねだりなのかもしれないけど、ちょっと残念。でも、古代と中世だけを読むためだけに買っても十分モトはとれます。

 まずイイのは『日本書記』には唐への留学から帰った僧道慈が関わることで、すでに仏教の影響が入り込んでおり《日本の神々はその出発点からして、仏との交渉の中に自己形成をしてきた》(p.29)というあたり。アマテラスは後に密教の大日如来と習合しますが、その素地は仏を光輝く国家の守護者として描く『金光明経』になぞらえているところにある、と指摘するわけです。

 教えられたな、と思ったのは最澄の一乗・三乗論争。天台宗は声聞・縁覚・菩薩という修行者に応じた悟りがあるという三乗説をとらず、すべの人は同じく仏になることができると主張しますが(一乗説)、これがその後の本覚思想や鎌倉仏教にも決定的な影響を与える、というんです(p.53)。日本人のやたら平等を求める発想にも影響されたんでしょうかねぇ。

 また、真言宗の即身成仏という発想は、悟りを極めて身近なものにしたというんですなあ。で、これも《あるがままの現実をそのまま悟りの世界とみる本覚思想に連なっていく。また生者の儀礼によって死者の成仏を実現する葬式仏教の発想も、即身成仏による成仏の卑近化の上に展開することになる》(p.56)というあたりはうなりました。平等を求め、現実を肯定するという<古層>がだんだん蓄積されていく、という感じ。

 また、あまりにも重きを置かれすぎている鎌倉仏教に関して《一般の民衆の生活がある程度向上し、また商業活動なども盛んになって、宗教的な要請が広く見られるようになったから》(p.72)勃興したのだ、というあたりも逆転の発想。さらに、鎌倉仏教のさまざまな宗派の展開を法然の念仏に対抗するための実践方法の競い合いであった、というあたりの割り切りも面白かった(p.75)。親鸞とかあまり触れられてないし。また、日蓮は菩薩心がなくても念仏だけしてればいいという浄土系の思想を批判するのですが、やってることは唱題のススメなわけで、早い話が「ナンマイダーvs.ナンミョーホーレンゲキョ」である、と切り捨てるのも心地良いです。

 後、天皇家と密教的な立川流(女性との交合液を髑髏に塗りたくる)の関係が深かったのは《王権はその継続性が重要な意味を持つから、仏教の原則に従って煩悩を滅し、性を否定してまっては成り立たない》(p.81)からだと説明するあたりも、ありがたみはないけど、あっけらかんとしてイイ感じ。

 嵯峨・清涼寺の釈迦像が生身のお釈迦様を写したとして有名だったなんていうのは初めて知った(p.90)。もっとも、インターネットで見てみたらちょっとガックリきたけど。とにかく著者は、こうした《従来荒唐無稽で取り上げる価値もないと考えられていた神仏習合の思想》をもっと注目しなければならないと主張し、《中世こそその<古層>が深く沈殿する時代であったと考えられる。中世はいわば無意識の中に沈殿した我々自身の中の<他者>である》とします。

 また、オウム真理教にも影響を与えた竹内文書などの偽書が盛んにつくられるようになったのは、口伝仏法や切紙伝授などの手法が影響しているのではないかというあたりもなるほどねぇ、と(p.99)。

 「神」という単語が《中国の文献では、外なる神的存在であると同時に、内なる心の微妙なはたらきをも意味する》(p.109)というのも知らなかったな。

 あと、禅宗が浸透したのは、修行中に死んだ僧の亡僧葬法が簡素でありつつも形式も整っていたので、大名などの要求に応えることができて保護された、というのも面白かった。それまで、キチッとした葬式をやろうとすると複雑すぎていたらしいんですなぁ。ここらあたり、ちょっと不思議というか皮肉な感じもしていいです(pp.116-117)。

 そして本覚思想的というか、現実的な筆者の《じつは葬式を担当できるかどうかが、宗教として定着できるかどうかを決める決定的な要因となっている》(p.168)というのは、宗教に救いを求めないフツーの人々の心を代表していると思うし、《今日、家のシステムが崩れつつある中で、葬式仏教も少しずつ変わらざるを得ない情勢にある。それはもしかしたら、日本の宗教史の大きな転機となることかもしれない》(p.138)という指摘は納得的。

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