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July 02, 2006

『精神現象学』読書日記#8

『精神現象学』読書日記#8

[B.自己意識][IV.自己確信の真理][A.自己意識の自立性と非自立性-支配と隷属] 

 「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレトの言葉 1:9)なんて感じで、どうも読書にも身が入りません。でも、これだけはやっつけたいと思います。

 今回は有名な主人と奴隷のところですね。もちろん、関係の絶対性というか、自己というものは、他人にとっての自分という関係性の中でしか存在しないということを重点に見ていってもいいし、あるいは「他者を喰う」という相手を否定することでしか自分を証明できなかった欲望だけが先行する人間のあり方から、労働によって自然を加工することで自由になる、という新しい段階に入った自己というようにも読めます。やっぱり若書きなんでしょうか。後の著作からの後付で、どんなようにも読めてしまうんです。

 まあ、そうなんではありますけど、最初の『自己意識とは承認されたものとしてしか存在しないのだ』(p.129)という言葉は、ここの[A.自己意識の自立性と非自立性-支配と隷属]を決定づける言葉です。

 さて、自己意識は他をすべて排除することによって自己同一性を保っています。こうした個の他者が向き合うと生死をかけた戦いが繰り広げられることになるのですが、互いに生命を否定して戦っては意味がないわけで、こうした戦いは主人と奴隷という関係を生み出しします。それは『生死のたかかいのなかで、奴隷は物の束縛からのがれることができず、物なしで独立できない従属的なすがたを示したのである。主人は、物の存在など消極的な意味しかもたないことをたかかいのなかで示し、もって物への支配力を確立している』という関係である、と。物は奴隷に対して独立の存在だから、奴隷は物をなくしてしまうわけにはいかず、加工するにどどまるのに対し、主人は満足を持って消費するという違いが生じます。主人は物との間には奴隷を媒介として挿入することによって、≪物の非独立性という事態を手中にし、物を純粋に消費する。独立した物は奴隷の手にゆだねられ、奴隷がそれを加工するのである≫(p.135)というわけです。これは『一方的な、対等ならざる承認の関係』です。

 しかし、『欲望を抑制し、物の消滅まで突きすすまず、物の形成へとむかう』労働を行う奴隷は、『自分が自主・独立の存在であることが自覚され、こうして、自主・独立の過不足ないすがたが意識にあらわれ』てくるようになります。こうして一見他律的にしか見えない労働のなかで、意識は自分自身を発見するのです。

 ヘーゲルはそこまで書いていませんが、多くの人間は主人と奴隷という風に二分して考えれば、奴隷でしょう。しかし、その奴隷であっても、物に中に自分を対象化するというか、物に対する自由な関係を確立するのです。これは救いなわけですね。

 そして、そうした関係のキッカケとなるものとしてヘーゲルが重要視するのが恐怖です。≪主人に隷属しているとき、自主・自立の意識は他者として自分のむこうにある。恐怖のなかで、自主・自立の存在がわが身に感じれる≫(p.137)、≪最初の絶対の恐怖なしに意識が物を形成するとすれば、意識はただ自分の虚栄心を満足させるだけおわってしまう≫(p.138)と恐怖を強調します。ここはとても重要だと思うのですが、いまの自分では、これ以上のことは語れません。

 とにかく、こうしたダイナミックな運動によって獲得された自由を知的に拡大していったのがストア主義であり、懐疑の自由でもある、というのが次のテーマとなります。

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