『精神現象学』読書日記#5
「まえがき」「はじめに」を終えて、いよいよ「A 意識」です。
『精神現象学』は「A 意識」「B 自己意識」「C 理性」の三部構成として構想されたと思うのですが、長谷川訳でも「A」はpp.66-118、「B」はpp.120-158と比較的コンパンクトなのに対して「C」はpp.160-549とベラボーに長くなっています。これは、明らかな構成ミス。ぼくが編集者だったら、書き直しを命じるかもしれません。しかも、「Ⅰ 感覚的確信」「Ⅱ 知覚」「Ⅲ 力と科学的思考」で構成される「A 意識」のうち、「Ⅲ 力と科学的思考」は読むに絶えないほどのヒドイ出来なんです。
『精神現象学』は長い間、書評もされなかったといいますが、原文の読みにくさに加え、構成的な失敗、いきなりの不出来な章ということが加われば、さもありなん、という気もします。長谷川さんは『ヘーゲル『精神現象学』入門』の中で、もしヘーゲルが夭折して、『精神現象学』しか著作が残っていなかったとしたら、果たして、後世にヘーゲルの思想は伝わったのだろうか、と述懐しています。確かに、大学での講義、そして、この後、ぼくたちも読んでいくエンチクロペディがなかったとしたら、『精神現象学』は世紀の奇書として扱われていたかもしれません。もっとも、日本においても、何回も書きますが、はたして、この本が、正しく読まれたのかというのは疑問です。だから、『精神現象学』を読むという行為は、今でも、十分、目新しいことなのだと思います。
[A 意識][Ⅰ 感覚的確信]
ヘーゲルは《感覚的確信が真理だと称するものは、もっとも抽象的で、もっともまずしいものである》という逆説めいた書き方で、裸の意識としての感覚の貧しさを強調します。
印象的な言葉を引用します。《いまあることが真理なのではなく、いまであったことが真理なのだ。いまであったものは、実のところ、いまの本質ではない。それはもうないものなのだが、「いま」の本質は「あることにあるのだから」》。
長谷川宏さんによると、「いま」とは様々な要素を含む運動なのです。「ここ」と示されても、前後左右のある「ここ」に対しての「ここ」であり、差異でしかないわけですから。
そして《それを目の前にするとき、わたしは、直接そこにあるものを知るという段階を超えて、「知覚」の段階に入っているのである》。
長谷川さんは、こう解説しています。《意識は感覚から知覚へと上昇し、対象は「このもの」(目の前のこれ)から、一定の性質を備えた物へと高度化する》《知覚は目の前のものに目をとめ、それを立体的なものして見る方向へと足を踏み出しているのです》(『ヘーゲル『精神現象学』入門』、p.104-)。
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