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June 09, 2006

『精神現象学』読書日記#4

これまで書いてきたのはヘーゲルの「まえがき」。今日はp.51からの「はじめに」を一緒に読んでいきたいと思います。

 ヘーゲルの「まえがき」をひとことで語ってしまえば、分裂と対立と否定の向こうに世界の発展がある、という確信ではないでしょうか。でも、こうした見方は、「高見」から見下ろしている感じで、なんか今は流行らないような気もします。しかも、ヘーゲルの結論は、知にかかわる意識なら、遠くを展望できるのだ、というクリアカットすぎるものです。

 まず前提がこれ。

 《意識は自分自身を超えていくといえる。意識にとっては、個としての存在とともに彼岸が、たとえそれが限定つきの存在の横に空間的に設定されているにすぎないとしても、ともあれ彼岸が設定されているのだ》(p.57)

カッコ良いですねぇ。そして!

《まず、意識のむこうに意識とは区別されるなにかがあって、意識は同時にそれに関係している。いいかえれば、意識にたいしてなにかがあって、そこでの関係という側面、つまり、なにかが意識にたいしてある側面が「知」である。が、なにかが他にたいしてあるのとは別に、それ自体であるという側面が考えられる。つまり、知に関係するものは、関係すると同時に知から区別され、この関係の外に存在するものと考えられのであって、この「それ自体(本体)」が「真理」と名づけられる》(p.58)

 ちょっと難しいですが、ヘーゲルはここら辺の呼吸をこう説明します。

 《意識のうちで、あるもので他のものにたいしてある、という関係がなりたっている。つまり、意識そのものが知であるという性質をもち、同時にまた、他のものが意識にたいしてあるとともに、この関係の外にそれ自体としてもあって、それが真理の要素である》からだ、と(p.59)。もっとかみ砕くと《意識は対象を意識するとともに、自分自身をも意識しているのであり、いいかえれば、真理の意識であるとともに、真理の知の意識でもあるのだから。真理と知の両方が同じ意識にたいしてあるがゆえに、両者の比較も可能となるのであり、同じ意識に、対象の知が対象と一致しているかが見えてくるのである》(p.60)と。

 ヘーゲルはこうした動きを《意識が知のものとでも対象のもとでもおこなうこの弁証法》(p.61)と生硬く語っていますが、長谷川宏さんの要約の方がわかりやすい。長谷川さんはこうまとめます。《そこにもまた、自己を超えて、自己とのあいだに一定の距離をとりうる力 - 自己否定の力 - が働いているのだ》と。

 「まえがき」の最後は『精神現象学』のラストまでを見すえています。ヘーゲルは混沌とした「はじめに」と「まえがき」を書く中で、ようやく希望を見いだしたのでしょうか。

 《意識が自分にかんしておこなう経験は、その本質からして、意識の全系統を、あるいは、精神の真理の全領域を、掛値なしに内にふくむから、独自の形をとってあらわれる一つ一つの精神の真理は、抽象的で純粋な真理としてあらわれることはない。意識と真理との具体的なつながりのなかで、全体を構成する一つ一つの要素がまさしく意識の形態としてあらわれるのである》《このようにしてついに意識がみずから自分の本質をとらえるに至ったとき、絶対知の本当のすがたが見えてくるのである》(pp.62-63)

 いろいろ批判はあるでしょう。学部の学生さんだって簡単に批判はできそうです。しかも、お好みの立場で。でも、『法哲学講義』のどこかで語っていたように、批判することは、積極的な価値を認めるより、はるかにたやすいことなのです。

ということで、そろそろ入り江を離れ、困難な絶対知への航海にでてみましょうか。

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