『精神現象学』読書日記#3
今回は「まえがき」の名言集みたいなのを抜き出してみます。
・《裸の結論は、これまた衝動をぬきさられた屍にすぎないのだ》(p.3)
《結論とその生成過程を合わせたものが現実の全体をなすのだから。目的それ自体は生命のない一般観念》なんていうところも含めてなかなかアジってますねぇ。
・《精神はその次元を超えて、神なき自己反省という反対の極に到達しただけでなく、この極をも超えている》(p.5)
ヘーゲルの精神とは長谷川さんの本によると《たんなる生命の関係を超えた人と人との関係を、ヘーゲルは「精神」の名で呼ぶ》と書いています。
・《真理をめぐる一切に関係する重要な点は、真理を「実体」としてではなく、「主体」としてもとらえ、表現することである》(p.11)
これは#2でも引用しましたが、ヘーゲルの考えの基礎となるものですね。《生きた実体こそ、真に主体的な、いいかえれば、真に現実的な存在だが、そういえるのは、実体が自分自身を確立すべく運動するからであり、自分の外にでていきつつ自分のもとにとどまるからである》というあたりもヘーゲルの考えを理解する上で重要ですね。つまり、いきつもどりつ、いろいろやるんだけれども、主体の自己同一性は保たれる、と。後で《共同体世界は本質的に主体である》(p.23)なんていう考え方も披露されます。
・《(神、絶対的なもの、永遠なるものなど)そうしたことば以上のものは文の形であらわされることになるが、それには、いったん外に出てまた還ってくる、という媒介の過程が必要なのだ》(p.12)
ここらへんはヘーゲル先生の持論。そして《媒介とは自己同一のものがみずから運動することにほかならず、おのれとむきあう自我がむきあうなかで自分に還っていくという純粋な否定の力であって、運動という点だけから見れば、単純な生成の運動なのである》あたりから「否定」「分裂」「対立」などのタームが多くなります。それとここは主語と述語に関する説明のはしり。《(神は永遠なるものだ)のような命題では、真理は主語としていきなり提示されるにとどまって、自分に還ってくる運動として提示されることはない》《知の運動があるからこそ、内容が主体として表現される》というわけなんですね。ヘーゲルは知識こそが
・《哲学の原則とか原理とかいわれるものは、正しいものであっても、それが原則や原理にとどまるかぎりで、すでにあやまっている》(p.15)
これも決まってますねぇ。《真理は、できあがったものとしてそこにあり、財布にしまいこむこともできるようなコインではない》(p.24)なんてあたりもカッコ良い。
・《逆にいえば、存在の生成は本質へと還っていくことなのだ》(p.27)
せっかいくこんないいこと云った後は、なんかつまらない数学批判が続き、ちょっと退屈になります。
・《哲学的著作の多くはくりかえし読まないと意味がわからない、というのが哲学に投げかけられる常套の非難である》(p.42)
大切なのは、対立する運動が言葉として表現されることだ、とヘーゲル先生は自己弁護(?)します。目と指を持ち、革と道具が手に入れば、みんなが靴を作れるわけでない、と。また、真理は教理問答集や格言集でもない、とも。
・《一般大衆のゆったりした動きこそが、人目を引く言説によってかきたてられた関心や、軽蔑的な非難のまなざしを修正し、時が経つうちに広く受けいれられる哲学と、もうまったく命脈を絶たれてしまう哲学を弁別していくのである》
『法哲学講義』でも世論は大切だと強調しているところがありましたが、ちょっと意外な感じをうける方も多いのではないでしようかね。
ということで次回は「はじめに」に入りますww
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