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May 06, 2006

『法哲学講義』読書日記#9

 『法哲学講義』もいよいよ佳境に入ってまいりました。ここからは、再び、ゆったり目に。

 「第三部 共同体の倫理」はヘーゲルがもっとも得意とする論議。それだけに、例が豊富というか話の脱線具合も大きく正反合しているというか、読んでいて楽しいところです。とはいっても、その導入部は、第三部全体のアウトラインを提示するというところだからあまり脱線はないんですけど、基本の基本みたいな言い方にも自信があふれていて、個人的にはすごく感動します。例えば、こんなところ。

 《素朴な共同体の倫理(家族)のもとでは、個人は人格の形をもたず、自立した自由な個人ではありません。市民社会に至って、自由という要素が強く自己を主張し、個々人のあいだに差異を設定するものとなる。自立してあることは、他とちがうものであること、自己確信をよりどころとすることであり、そこに自立した個人の生きる場があって、それは抽象的自由を原理とする領域です》《共同体は失われ、意識されなくなり、背後にしりぞいて土台をなすだけになり、人びとの目的や関心事となるのではなく、意識されざる強制力-共同体の統一をなりたたせる内面の絆-となります》(p.316)

 こうした市民社会という外在的な国家は、やがて《国家体制(憲法)があらわれるなかで、内在的なものとしてとりもどされ、内在的なまとまりをなく》し、《共同体の大義は個人の自己に対立し、偶然的な存在にすぎない自己に義務としてせまって》くることになるかもしれませんが、最初に引用したとろこなどは、市民社会がはじまって本当によかったというヘーゲル自身のヴィヴィッドな感動を感じとることができたような気がします。

 もちろん、ヘーゲル的な予定調和では《共同体の倫理がわたしの立場であり、わたしは共同体の倫理そのものであって、まさしく共同体の倫理が権利であり義務でも》あるわけで、こうした《義務とかかわるなかで個人は共同体に自由へと解放され》るわけで、そこにはしかめっつらのヘーゲルがいるのですが…。

 「第三部 共同体の倫理」は三章に分かれていて、 《全体が共同体の倫理につらぬかれた関係は、結婚と国家の二つです》(p.297)というところから、家族と国家、そしてその中間にあたる市民社会を分析しようという流れになっています。構成は以下の通り。

第一章 家族
A.結婚
B.家族の財産
C.子どもの教育と家族の解体
第二章 市民社会
A.欲求の体系
(a)欲求と満足のありかた
(b)労働のありかた
(c)財産
B.司法活動
(a)法律となった法(正義)
(b)法律の現実性
(c)裁判
C.社会政策と機能集団
(a)社会政策
(b)職能集団
第三章 国家
A.国内法
I.国内体制
(a)君主制
(b)統治権
(c)立法権
II.対外主権
B.国際法
C.世界史

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