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May 05, 2006

『法哲学講義』読書日記#8

えー、全体のパースペクティブを改めて確認しますと、これまでは、序論と第一部「抽象的な正義(法)」を読んできました。『法哲学講義』の全体はどうなっているのかといいますと、第二部「道徳」、第三部「共同体の倫理」の三部構成です。で、長谷川宏訳の頁数でいえば、序論は66頁、第一部は118頁、第二部が88頁、第三部が310頁となっていています(概算)。量的にみても、第二部には力が入っていないのがわかります。民法、刑法が成立した後、個人の良心としての道徳が問題にはなるけど、所詮それは共同体の倫理にはひれ伏さなければならない、ということをいいたいがための部分であって、最初から展開が見えてしまっているというか、面白くないんですわ。脱線の部分も少ないし。第三部なんか面白い話のオンパレードになっていくのに、本当につまりません。

 実際、ヘーゲル自身の講義も《善をめぐっては果てしなくおしゃべりが続いて、満足は見いだせない。善はきわめてあいまいで、多くの道徳論文や哲学論文で善とはなにかが論じられています》(p.254)とあまり熱が入っていません。面白いのは第三部だということもあるし、ここも三章から成っているのですが、飛ばして紹介するにとどめます。

 まずヘーゲル先生は概念規定から入ります。《人格と主体は別ものです。これまではもっぱら人格をあつかってきましたが、主体は意志が自覚的になったもの、意志を明確化するものです》《人格は物を意志し、人格の対象は物であるが、主体は、外的な物を意志し、物の意志をもつというにとどまらず、自分自身を意志し、自分自身を対象とします》と。

 これによってどうなるかというと《いまや、自由な主体が自由な存在を-みずからを-対象とし、自分の自由を自覚し、自由が現実に存在することを自覚》するようになる、と。キリスト教でも《主体の心、主体の内面性こそが本質的であり、人間の魂、人間の精神こそ、神の認めるところ、神の関心事たる絶対の目的、絶対の価値だといわれます》と。なんといいましょうか、凡夫としてはすでにここらへんで「はあ、そうですか。で?」という感じになってしまうんですよね…。

 そして、《主観的意志という土台は、わたしが他人と関係するというかぎりで自分へと還ってくる意志です》という割とヘーゲル的には重要なことを語ったあと、《意志の正義(法)は、当然果たすべき義務をもふくむので、行動の起こす変化は概念にかなうものでなければならない。こうして、わたしの意志は意志の本質と結びつき、個別の意志が一般意志(共同意志)と結びつきます》《特殊なものが概念に一致しているのが善だ、と抽象的にいうことができる》が善の具体的定義は道徳の領域では見いだせない、《主観の奥底にあるの心は、良心となることもあれば悪心となることもあります》と全体の流れを予告します。ここまでが第二部のリード。

[第一章 企てと責任] 《企ては意図とは別ものです。企ては個々の目に見える行動と関係するが、意図は行為の一般原則、もっといえば、わたしの意志のうちにある一般原則をいうのでrから》とはじまるのですが、ここは全体的に何をいいたいのかハッキリわかりにくい。行為の結果について、意志された範囲でしか責任を問うことはできないから、オイディプスは父殺しではない、なぜなら父とは知らないで父を殺したのだから、という話が唐突に出てきたりします。話が抽象的すぎて面白くないためか、ギリシア悲劇と比べて今の演劇は共同体精神をかきたてないからダメだ、みたいな、まるで後年のプロレタリアート文学みたいなことを口走ったりします。ここらへんは、もしヘーゲル先生が生きているうちに出版されたら、絶対、削除していたんじゃないでしょうか(『講義』の部分はヘーゲルの死後の出版)。

[第二章 意図としあわせ] 行動は意図とそれにともなう結果をもつということから《一般性をもつことは行動の本質をなす事柄で、一般性に責任を問われるのが人間です》ということで、単に家の近くの木に火をつけたのだと主張しても放火の罪は免れない、なんてことを退屈に説明します。

 《ものごとを実現すべきだと考えるとき、実現するには、それが自分の関心を惹くものでなければ》ならず、《意図の内容をなすのは好みや衝動》だと説明し、《自分のしあわせと共同体精神が衝突するものと考えて、無私の行動を追求すべきだとするのは、空虚で幻想的で坊主くさい考えかたです》《中国人やカムチャッカ人のしあわせをどう推進できるというのか。「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せよ」と『聖書』がいうのは理にかなっている。隣人とは汝が関係をもつ人びとのことから、万人とはイメージをふくらませるだけの誇張表現てず》というあたりは「ふーん」とは思うけど、結局は《共同体的な関係は、それにしたがってもしたがわなくてもよい、というものではなく》《絶対的なものです》となる。完成された社会では《正義はなされよ、しかし、特殊な欲求も満たされよ》となるという。あ、そうですか、と…。

 やっぱり個人的な道徳ってのは限界があり、違法な行動の中に道徳的な意図を見いだすことはアカン、ということを語った後、しかし、緊急避難的に餓死しそうな人が他人の所有物を侵害するのは絶対の権利だということも語ります。それは《生命という無限の存在と、特殊な所有権の侵害とが対立しているわけで、権利の本体たる生命の侵害は、権利全体の侵害につなが》るからだ、と。

[第三章 善と良心] どんどん飛ばします。ヘーゲル先生も《果てしなくおしゃべりが続いて、満足は見いだせない》というぐらいですからね。

 意志と善は一体的なものだが、同時に独立した存在で、解決しがたい矛盾が存在する、というのを敷衍していって、《良心は悪と同じものです》(p.267)というところに新味があるかな。《主観性の深みに分裂が生じるとき、意志をめぐる最初の区別が、善と悪の区別であり》、悪は《自然のままの意志と対立する内面的な自由となる必然性のうちに、潜んでいる》(p.271)と語ります。

 自由とは《内面の底の底まで行ける》ということなのでもある、というわけです。自由は善と悪の源泉になっている、と。自然のままの意志は、善でも悪でもなく、低次元なものであるから、人間は知恵の実を食べなければならない、と。ヘーゲルは、神が蛇を罰したのはいつわりの言だからではなく、「見よ、アダムはわたしたちの一人のように、善悪を知るものになった」といったではないか、と説明します。

 あとは、いろいろ書いてあるけど、ヒマな方は読んでください、というぐらいなもので、ヘーゲル先生の本領が発揮されるのは第三部となります。

 最後に、第三部へに向けて、これまでの講義をこうまとめます。《最初に自由が対象となりました。つぎに、自由が形をとったものとして主観と定義されるものが登場した。自由の土台は主観的意志ないし意識にほかならず、それが第二の要素でした。第三の要素が両者-自由の概念と主観的意志-の一体化したものです。ここに共同体がわたしたちの対象になります》と。

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