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May 04, 2006

『法哲学講義』読書日記#7

 ヘーゲルは、§92で《暴力と強制は、抽象的にいって、不法(不正義)である》と定義します。強制は観念としても行為としてもむなしい、そして、そのむなしさのあらわれが、強制の克服、強制にたいする強制だと論議を進めていきます。不法な段階にとどまっている強制は抽象的なものだが、強制を克服するためのには強制が必要であって、それは法にかなっている、と。その上で、さきほどの、教育も暴力を克服するための暴力で、それはいいものなのだ、という論議になっていくわけです。

 そして、未開の状態から文明の状態への移行期にあらわれる英雄は、法(権利)を理念として心にいだき、自然状態にとどまる人びとに対して高度な法(権利)を行使し、人びとを強制するから、それはよしとされなければならない、と語ります。逆にいえば、国家建設者といいますか、憲法制定権力には法は適用されない、というわけで《その意味では、国家が成立すれば英雄の存在の予知はなくなります》と冷静に締めくくりますが。

 ちょっと話が大きくなったところで、ヘーゲルは民法と刑法との違いに論議を進めていきます。§95で《犯罪は完全な意味での否定の無限判断》であると定義するのですが、この「否定の無限判断」の意味するところは《特定の述語を否定するのではなく、述語一般をも否定するから、意味をもたない判断》ということになる、と語ります。

 民法上の争いでは、ある特定の所有物が自分に属さないといわれるかもしれないが、その他のものは所有できるし、人格性を否定はされない、と。詐欺においても、なお、法(権利)は承認されていて、不法がおこなわれてはいないと他人に思い込ませる努力がなされる、と。しかし、犯罪においては、特殊な事実と一般原理がともども否定される。そこが違うのだ、というわけです(p.188)。

 なるほど、民法と刑法はそこが違うわけね、とわかったとして、犯罪はなぜ危険なのでしょう。ヘーゲルは《犯罪がさらなる効果、さらなるつながりをもつ》から危険なのだ、と指摘します。追いはぎを放っておいたら、安全だと思われてさまざまな形で利用されている公道の存在を侵害することになるのだ、と。そして、そうした犯罪を罰することによって§97《侵害を破棄して自己を回復する必然性をもつことが、法(権利)が現実的だということ》なわけです。否定の否定にこそ現実性があらわれてくる、というお得意の論理。

 そして、《刑罰は、犯罪のうちにふくまれているものをおもてに出すだけのこと》であり刑罰と犯罪は別ものにみえるが、実質は同じだというのが刑罰の必然的なあり方なのだ、というところも実にヘーゲル的な言い方だな、と思いました。

 犯罪を犯す自由を認めることは自由に形があたえられるという人間にふさわしい名誉なのだ、というあたりはスゴイ。犯罪者も自由であり、自分の意志に形をあたえようとするものだから、二つの意志(一般意志=共同意志と特殊意志=犯罪者の意志)が区別されつつ統合されなければならない、というわけです。いささか理想的かもしれませんが、もし自由ということに絶対の価値を置くのであれば、これぐらいのことは云ってもらわなければ困るかもしれません。

 米国のネオコンたちの先制攻撃理論に哲学的に批判を加えるとすれば、こういったところからなのかもしれません。ぼくがこんなところで、こんなことを云っても空しいだけだし、ヘーゲル的に云っても、抽象的で現実性はないのかもしれないけど、ネオコンたちの先制攻撃理論は「犯罪を犯す自由を認めていない」から自由への信頼が足りないからダメ、と云えるかもしれない(ただし、その過程は現実的なものであったという反論をくらうかもしれませんが)。

 ヘーゲルは、国家によって侵害されるべきは犯罪者の意志である、といいます。《刑罰は犯罪者に痛みとして感じとられねばなりません。刑罰が痛みとしてかんじとられないと、犯罪者の意志の形が侵害されたことにならない》というわけです。人生がつまらないという厭世的な気分から、まるで自死の準備のように殺人を犯すような者の意志を攻撃するには、死刑を懲役刑に変えるのが理にかなっているというわけです(pp.195-196)。

 これも、ぼくが法律などマジメに勉強してこなかったからなのかもしれませんが、次の刑罰は犯罪を防ぐ威嚇であるか、犯罪者を正しい方向へ向かわせるための矯正なのかという議論に対して、どちらも不十分だという議論は新鮮でした。

 《犯罪者の教育環境の悪さ、感覚的衝動の強さといった事情は、すべて副次的なものです。それらは、理性の要求にくらべれば、ずっと価値の低いもので、理性的なものこそが、すべての上に立つ自由の目的です》とここでもまず自由が賛美されます。《犯罪者が矯正される、といったことは、自由の存在-侵害された法(権利)の再建という正義-の後に出てくる問題です》《犯罪者にも理性が行使されるというのが、人間にあたえられる最高の名誉》であって、刑罰に関して重要なのは《当人の形式的な同意がなければならない、ということで。害悪をなした人間はそのことを公言し、みずから法となって、自分をその支配下に置くのでなければなりません》というあたりははクリアカットすぎるかもしれないけど、ヘーゲル先生は高らかに宣言するわけです(pp.197-199)。

また、恩赦に関する《もともと人間の内面には、犯罪をなかったものとする力が備わっているのですが。人間が悪しき意志を超越できるというのは、精神の無限の自由をあらわします。国家において、人間は起こったことをなかったことにすることができます》という言い方も、そこまで云うか、という感じがして素晴らしい(ちなみにここの「力が備わっているのですが。」の。は、の誤植ではないでしょうかね)。

 あと、刑罰には当人の形式的な同意がなければならないというけれど、はたして死刑に当人が同意するのか、という論議に関しては、《国家は契約でなりたつものではないし、個々人の生命や財産の保護と安全が、無条件に国家の共同の本質をなすものではない。国家はもっと高度な存在で、個人の生命や財産を要求することもあるし、それを犠牲にすることを強要することもある》と突き放します。そして「目に目を、歯には歯を」の原則は《盲目の人が他人の目をぬきとっても、その人に報復はできないし、歯のない人が他人の歯をぬきとっても報復はではない。報復しようとするのは笑い話で、価値の等しい報復で満足するしかありません》という今テレビで喋ったら抗議殺到間違いなしの論法を披露した後、《刑罰は国家においてはじめてなりたちもので、国家の外では報復の正当性があるだけです》とほぼ、議論を収束させます。

 この後も、封建時代には、裁判官の判決に満足できない場合、裁判官に決闘を申し込むことができたなんていう話を脱線しながら語ってくれた後、これまでの論議(運動)によって「自覚された法(権利)は、主観性が法(権利)のそのものへと到達したことを示」すと整理されます。

 そして《意志の主観性が意志の形であり、法(権利)の形であって、法(権利)は主観のうちに存在しなければならない。そう考えるのが道徳という立場の原理なのです》と結んで、第二部の「道徳」に橋渡しをします(p.207)。

 で、ですね。「第二部 道徳」なんですが、ちょっと退屈なんですよ…。少し飛ばすかもしれません。

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