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May 27, 2006

『法哲学講義』読書日記#20

 [第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][C.社会政策と職能集団] ここは当時の市民社会におけるユダヤ人問題が、現代のグローバル経済においてはイスラム教徒の問題に対応するんじゃないかと感じるようなところが考えさせられました。仕事が忙しく、平日はゆっくり書くこともできませんので、土日には飛ばしていこうと思います。[C.社会政策と職能集団] の頁はpp.460-498。《この講義の目的も、精神がおれを客観化するのに際してどのような内容をもたねばならないのか、いま目の前にある現実の共同体世界の内容がどのようなものでなければならないのか、それを認識するところにあったのです》で終わる605頁まで、あと一息というか、[C.社会政策と職能集団]が終われば、いよいよ[第三章 国家]で講義が締めくくられます。

[C.社会政策と職能集団] Polizei(社会政策、警察)という言葉はギリシア語のPolis(都市国家)とPoliteia(政治)に由来する言葉です、というあたりから社会政策を説明しはじめます。そして《社会政策は、一般的に、市民社会の統治と定義でき、目的とするところは、生活上の正義(法)と幸福です》と定義。職能集団というのはハンザ同盟みたいなものでしょうか。《成員にとって、共通の、実質的な、内在的な、固有の目的》を実現するために《共同のまとまりをなし、そのための活動をおこなう》ものである、と語ります。

[C.社会政策と職能集団][(a)社会政策] ヘーゲルは社会政策が司法活動から切り離されているということを、まず強調し《犯罪を防止し、ある種の財産使用を禁止するのが、社会生活の仕事の一つです》と語ります。《だれもかれもが社会政策の怠惰を非難するかと思うと、他方では管理過剰が非難される。管理には偶然の要素が入りこみ、それが非難を生む原因ですが、これは避けがたいのです》というあたりは、警察官が嫌われるというのは今も昔もかわらないな、と思わされます。《以前、警官が裁判官をも兼ねていた時代には、裁判官が自分の行為を否認することはないから、逮捕者がそのまま拘留されのが普通でした。個人の自由を保障すること重要です》というあたりは、当時のドイツと比べても、今の日本の代用監獄制度(拘置所)のシステムが根本的なところで遅れているんじゃないかと改めて感じさせられたところです。

 インフラを管理するのは中央官庁の配慮のもとに置かなければならいというあたりから、官僚の話に移っていきます。当時の話として、生産者には品質が一定となるように厳しい細かな指示が中央官庁から出されいたので、最初に事業を興した企業家はいつも破産し、第二、第三の企業家になってはじめて成功することが多かったため商品の品質は消費者が気にかければいい、という"規制緩和"が行われたということが語られていて、こうした経済的な規制緩和の要求というのは昔からの話だったわけね、と改めて思いました。

 ここからが、面白かったところ。

 《市民社会の基本は、だれ一人その外には出ていけず、一切が万人の労働によってなりたつ、というところにある》。

 いいですねぇ。

 いまの世界に置き換えれば「グローバル経済の基本は、一国としてその外には出ていけない」ということになるのでしょうか(問題は一切が万人の労働によってなりたつ、というところがあまりにも分裂してしまっているところなのかもしれません)。

 そして、ここからのユダヤ人批判がすごい。2頁にわたって批判が繰り広げられます(pp.471-472)。

《市民社会の基本は、だれ一人その外には出ていけず、一切が万人の労働によってなりたつ、というところにある》のだから《ユダヤ人にたいして、一般大衆の欲求を満たすべく、土曜日(安息日)に店を開けておくよう要求することができる》とまず、多元主義などどこ吹く風とばかりに一発かまします(まあ、当時はそんなものはなかったわけですが…)。

 さらに職業に関して、ユダヤ人には偏りがある、と批判するのです。

 《個人にとってすべての職業が開かれている、というのが市民社会の基本条件》であり、《個人の主観に特定の制限が設けられ、個人が特殊な職業階層をなし、他の営業に目をむけない、といったことは、あってはならないのです》と商業にこだわるユダヤ人を原則論で非難します。《宗教的な原理が存在して、それが特定の職業に就くのを強制する、といったことは、あってはなりません》とまでブチかますんです。

 極めつけは、この言葉。

 《その点では、ユダヤ人は市民社会の成員ではない》。

 ブッシュ政権なら「イスラム原理主義者はグローバル社会の成員ではない」と語るかもしれません。そういいたくなる気持ちは半分はわかるけど、土地を保有することが禁じられていたからユダヤ人は農業に従事できなかったわけだし、グローバル企業にキャッチアップできないイスラム世界の人々は不満を持ち続けることにはかわりはないでしょうし…。

 この後は教育の重要性について《§239 教育が市民社会の一員となる能力》を握ると語りますが、怖いというか、そこまで云うか…ということをまたやらかしてくれます。

 それは§241。そこでは、貧者が家族という血縁の絆も絶えると、社会的便宜のすべてを、宗教の慰めすらも、大なり小なり奪いとられる(p.476)とまで書くわけです。

 しかも《これは重要な節です》というダメ出しまでやっている。

 市民生活では、自然もまた誰かの所有物であるから《貧者は漁も狩りもできず、果実を摘むこともできません》。さらに貧乏人は司法活動からも事実上、外されると警告も与えます。もちろん福祉は当時もありました。しかし《無料施療医や官選弁護人がいないわけではないが、そうした人びとがどんな心根かは、出たとこ勝負です》と語り倒します。さらに、《貧乏人は宗教の慰めにもあずかれない。ぼろを着て教会には行けないが、身につけているものはそれしかなく、やむをえず、早朝の説教や平日のミサが設定されています。最後にいえば、死の床にある人を慰める聖職者にしても貧乏人のあばら屋よりも金持ちの邸宅に行くのを好みます》。そこまで大学の授業で云うか…という独走態勢で学生を振り切る印象。なんか貧乏していたときに恨みでもあるのかな…。

 この授業を行った日は虫の居所が悪かったのかヘーゲルの怒りは労働者にも向けられます。

 《機械的労働のくりかえしのなかで、大多数の人間の愚昧化が進みます》なんて云っちゃいけないことまで語った後、働かない賤民のダメさについて延々と語るわけ。《かれは、生計の道を見つける権利が自分にあると知っているから、貧困は不法であり、権利への侮辱であると考えて、当然のごとく、不満をつのらせ、その不満が正義の形をとります》そして《偶然の運を当てにするしかない人びとは、たとえば、ナポリの乞食のように、お調子ものの労働ぎらいとなる》。怠け心と権利意識が賤民を生み、彼らは独善の極へと至り《市民社会には自分を扶養する義務があると申し立てます。賤民と独善の結びつきは至るところで見られます》とまで書いて、スコットランドにおいては矯正のために《人びとのあいだを乞食してまわらせるのが有効であると、と実証されている》というんですな…。

 しかし、鋭いことも書いているわけです。市民社会にこうした人びとが出現するのはそれを《防ぐのに十分な共同財産を所有していない》からだ、と。ここで少し救われる気がします。

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