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May 25, 2006

『法哲学講義』読書日記#19

[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][B.司法活動][(c)裁判] ここは裁判が公開されなければならない理由、また、裁判官は"世論"を気にしなければならないこと、簡易裁判所の存在意義あたりが読んでいて面白かったところですね。

 ヘーゲルは、まず裁判の原則として犯罪を克服することによる法律の復元とともに《犯罪者の主観に即していえば、犯罪者が法律の存在を自覚し、それが自分のためにあり、自分を保護してくれるものであることを確認する》という意味での法律の復元でもあると語っています。ここらあたり『精神の現象学』でも似たような論議があったと思うのですが、双方向の復元といあたりが見事なところでしょうか。そして《国家においてどんなに有力な地位にある人でも、法廷に出頭する義務を課されるのでなければ、自分の権利を手にはできません》というあたりも厳しく素晴らしい。かと思うと《権利があるのに、それを証明できないというのはつらいものです》という思いやりもみせてくれるところが大哲学者であるゆえんでしょうか。

 何回も書きますが、ぼくは法律の素人でして、まともに学部レベルの教育も受けたことはありません。だから新鮮に感じるのかもしれませんが、ヘーゲルが衡平裁判について語っているところは面白かった。たぶん、簡易裁判のようなものなんでしょうが、例えば日付のない紙片による遺言が正しいかどうかということを決めるような場合《そんなものをよしとするようでは、法律の堅実さはまったく水泡に帰すともいえる。が、衡平裁判の裁判官が、この場合はそれこそが本当の遺言だと確信すれば、紙片には効力が認められます》と書いてあって、超納得。

 次にヘーゲル先生が意外な側面をみせてくれるのが、裁判の公開原則について熱く語っているところ。

 《判決は万人の関心をひくものなのだから、司法活動が公開されねばならぬ理由は、そこにある》というのが大原則。また《当事者が裸の判決文だけを受けとる裁判は、裁判官が法(正義)を表現する、というより、主人が臣下に命令をくだす関係になってしまう》とも語ります。

 驚いたのは次の文章。

 《世論は現実に存在し、現実を動かす力を持つべきであって、そのためには、公衆は、判決がどうくだされるかを知る権利があり、判決について意見や判断をもつ権利があります》(p.444)

さらに裁判を公開することによって《裁判官の主観性-安逸、怠惰、無知-を監視することができる》とまで語っています。まさに、ヘーゲルは裁判の公開を司法活動を判断する主観的意識の権利が一般大衆の手中にあることが自由のあらわれなのだ、と云いたいのかな。

 陪審裁判が素朴な感じを残しているのは、裁判において主観性が大切な要素となっているだけでなく、最終的には良心の声を聞かなければならない、ということをあらわしているのかもしれませんというあたりもなるほど、と、。さらには《事実の証言の究極の根拠となるのは、つねに主観的な確信》(p.454)とまで語ります。

 さらには、犯人が自白しない場合《他の人びとが当人の魂になり、当人になりかわって「たしかにわたがやりました」と言明する役》というのも陪審員の役割だというのです(p.456)。また、全員一致は確かに《筋の通ったやりかたではあるが、反面、なにも決まらないやりかたともいえる》と突き放します。

 イギリスはローマ法を導入しなかったから、裁判の公開性が保たれていたなど面白い話もあったけど、ま、このとろこは、こんなもんでしょうかね。

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