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May 21, 2006

『法哲学講義』読書日記#17

 2001年2月26日から3月2日まで、日経夕刊の人物紹介欄に長谷川宏さんのことが5回にわたって連載されました。大学院の時に遭遇した東大闘争で大学をやめ、自分の部屋と本があれば研究は続けられると所沢で塾を続けながら、「ヘーゲルを読む会」なども同時並行で主宰しつつ翻訳を進めるといった歩みがまとめられています(まだ単行本に未収録だったと思うので、コピーをとっておいて本当によかった)。

 その中で長谷川宏さんが語っているのはこんなことです。

 《ヘーゲルの哲学はヨーロッパ近代思想の一つの集大成といえます。明治以来、日本はヨーロッパ近代思想を輸入し、物質面や制度上ではめざましい近代化を遂げてきましたが、近代思想の根にある一人一人が独立の人格として社会と向きあい、自分の確信に基づいて主体的、自立的に生きていくという意味での近代精神は、日本社会に根付いていないと思います。

 戦後民主主義の時代に青春時代を過ごした自分の経験を踏まえていうと、自由とか自立とか人権といった理念が社会に深く根付くことなく、1970年代以降、形がい化していったように思えるんです。

 ヘーゲルに代表されるヨーロッパ近代思想はさまざまな問題点をはらんでいるのは事実ですが、もっと日本社会に定着してもいいのではないか。個人が対等な立場できちんと議論しあえる環境とか、主体的な個人がお互いの理性や自由を尊重しあうとか、そういう近代がもっと根付いてくれないかと考えているんです》(01/2/26 日本経済新聞夕刊)

 えー、まったく同感でありまして、個人的には、まず自分にそういった基本的な考え方みたいなのを根付かせたいと思って、ずっと読んでいるわけです。

 ということで[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会]も[B.司法活動]に入りました。[B.司法活動]も司法活動に関する全体的なパースペクティブの提供、そしてお得意の3段論法といいますか、具体的な内容に関しては[(a)法律となった法(正義)][(b)法律の現実性][(c)裁判]と続きます。頁数でいえばpp.413-460。

 ヘーゲル大先生の御言葉で超ざっくりご紹介しますとこんな感じでしょうか。

 《法(正義)は、まず、法律の形をとり、つぎに、意識にたいして明確な輪郭をもってあらわれ、第三に、裁判おいて、主観的意識にとりこまれた法が、ことばとなって表出され、強制力をもつ客観的な存在となります》《不正義(不法)の存在はゆるされず、正義(法)は、特殊な欲求と結びついた共同の正義(法)として存在しなければならない。抽象的ないいかたをすれば、それが第三章の対象です》

 p.416と460をつなげると、あーら不思議、[B.司法活動]のまとめと[第三章 国家]までのつながりがわかってしまうという。ということですが、もう少し丁寧に講義を追っていきましょうか。

[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][B.司法活動] §209と210はぼくの読解力が不足しているのかもしれまませんが、ヘーゲル先生として不発といいますか、あまり迫ってこない。でも、ちゃんとそうしたところは講義で補っているんですな。

 曰く《現実の世界の世界の教養が高まって、法(正義)を意志するに至らねばならない》。法(正義)が現実の存在とななるべきだ、ということでは不足で、現実の世界が法(正義)の実現を望み、法(正義)を実現する能力をもたねばならない、と。だから社会の発展段階が遅れたところに、いきなり法(正義)を持ち込もうしても失敗するわけで《ナポレオンがスペインにたいしておこなったように、特定の民族に一つの立憲体制、一つの法体系を頭ごなしに押しつけることはゆるされない》と。こうしたことは、エスキモーにラント法を押しつけるようにものだと、またいらぬことを語るのはご愛敬。

 さらに、法が法として現実に存在するためには《欲求に動かされる主観的な意識が、法(正義)を意識できるだけの教養をもたねばならない》。

 《個々の意識が教養を積み、ものごとを一般性の形式で思考できるようになると、自我が普遍的な人格としてとらえられ、すべての人が同一の人格となる。人間は、ユダヤ教徒、カトリック、プロテスタント、ドイツ人、イタリア人、等々だから価値があるのではなく、人間であるから価値があるのだ。思考の確信をなすこうした意識は、たとえようもなく重要な意識であって、難があるとすれば、世界市民主義(コスモポリティスムス)に凝りかたまって、具体的な国家生活に対立するような場合だけである》(p.415)

 法(正義)は民族といいましょうか、ひとつの国民といいましょうか、共同体を形成するある地域の人々が具体的に経験したことの上に成り立っていくわけだし、それとともに、自我を普遍的人格としてとらえるように教養も高まっていくわけだから、落下傘みたいに出来合いの理念を落としてもダメよ、というわけですね。古代ギリシア人がダメだったのは、人間は自由あり奴隷にされてはならないということもわからなかったから、というあたりは感動的ではないでしょうか。

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