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May 20, 2006

『法哲学講義』読書日記#16

 ということで今回は[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][A.欲求の体系][(c)財産]について。[A.欲求の体系]はこれで完結。市民社会に関しては具体的な判例が面白い[B.司法活動]と[C.社会生活と職能集団]が続き、さらに三章でいよいよ国家が考察の対象となっています。

 いま、パラパラと今年の春先に出た長谷川さんの最新のヘーゲル訳である『精神哲学』の訳者あとがきを読んでいたら「わたしのヘーゲル翻訳の仕事は、この本をもって終止符を打つことにしたい」と書いてあるじゃありませんか。まあ、エンチクロペディーを「哲学の集大成」と意訳し、小論理学を始めたあたりからなんか予感はしていたのですが…。思えば14年前、バブル経済がガラガラと崩壊していく姿を目の当たりにして第二の敗戦のような感覚にうちひしがれながら、『哲学史講義』を必死に読んだことを思い出します。その当時、個人的にものすごく残念に思ったのは、自主廃業会見で見せた山一証券の社長の泣き顔のように、近代的合理性の権化であるべき一流企業のトップにも近代的精神が確立されていることを感じられなかったこと。第二次大戦で負けてマッカーサーがやってきて「日本人は精神年齢12歳」と語った時から、あまり変わっていないんじゃないか…なんて情けなくなりました。結局のところ、近代は貫徹されていないんじゃないか、と…。いま、ようやく景気も回復してはきましたが、それとともに台頭してきたのがプチといいますか小児病児的なナショナリズムというのも情けない。国家の品格のようなところに逃げ込んで"武士道エスプリ"でごまかすのもいいかもしれけど、それより、もう一度、近代とは何かを考える必要があるんじゃないか、みたいなことを個人的には思っているわけです。

 まあ、ヨタはこのぐらいにしますが、いまの時期に長谷川訳のヘーゲルを丁寧に読んでいくことにしたのは、改めて本当によかったなとも思います。この思いが、個人的にはびっくりするほど読んでいただいている皆さんに、少しでも伝われば幸いです。

 さて。

 ヘーゲルはいきなり面白いことを云います。労働を通じて共有の財産が生じるが、それは個人が所有する自然物とは違う加工品であり、各人は自分の欲求をたずさえて、市民社会に入り、労働を通しての"共有の財産"に参与するのだ、と。

 《§199 労働と欲求の満足が、たがいに依存しつつ相互に関係するなかで、主観的な我欲が万人の欲求の満足に寄与するものへと転化する。特殊なものが一般的なものによって媒介される、というこの弁証法運動のなかで、各人が自分のために取得し、生産し、享受する行為が、同時に、他人の享受のための生産となり、取得となる》

 いいですねぇ。見事な論議の進め方だと思います。

 ヘーゲルは資本主義とは呼びませんが、とにかく資本主義社会の"共有の財産"は、個人の財産とはまったく違う可能性をもつと語ります。《各人は、ここに、自立できるという実感をもち、自分の欲求と自発的に、自分の労働を通じて、満たしうることに、誇りをもちます》。それは《外的な自然よりもずっと大きな賜物です》《自然はみのりゆたかだが限りがある》というあたりは、LOHASさんたちにはウケがよくないかもしれませんが、資本主義社会のネットワークというのは、吉本さんの言葉を借りれば、歴史の無意識が生んだ社会システムの最高傑作だと思います。

 そして、当時のイギリスは《輸出や見本市の開催によって》この社会システムを世界に拡げ《世界中の国民が欲求を知るようになると、かれらは自然状態からぬけだし、それでだめにもなるが、欲求を満たす手段をうみだす必要を感じることにもなる》と。《こうして、所有の安全や契約の遵守が要求され、共同体の倫理が形成されていきます》というあたりはクリアカットすぎると感じる人の方が多いとは思いますが。

 あと、この言葉は印象に残りました。

 市民社会の中で《人間は自分の真価を示さねばならず、なんでもつくり出してみせねばならず、模倣によったり、必要にせまられたりしながら、自分のうちにあるすべての力をしぼりださねばならない》(p.396)

安心するというか勇気をもらえるというか、現実にすがたをあらわすためには《模倣によったり、必要にせまられたりしながら》必死にやることは主観的自由の権利だというわけです。かならずしも平等ではない社会の中にあって自己実現をしていくことは、大変なんだ、と。だから模倣ぐらい大目にみてやれ、と云ってくれているように感じます。このあとの《一般的にいって、人間が主体の自由と自立を獲得するのは容易なことではありません》というあたりも含めて、現実を生きる人間に送る暖かい目線を感じます。

 とにかく、こうしてできあがったネットワークに各人は割りふられ《さまざまな階層の織りなす体系》ができあがる、と。

 階層には二重の意味がある、とヘーゲルは語ります。《市民社会に属するものとしては、農民階層、商工業界層、公職階層があり、第二の意味の階層は、政治国家のなかに位置を占める、領邦等族階層、地方三部会階層、帝国等族階層などです》。このうち市民社会の階層は、欲求と特殊な利益を土台としていて、この特殊な面が、政治国家と結びつき、一体化しなければなりません、なんてあたりはよくわからないけど、農業が営まれることによって、《土地は持続的な所有地となるし、開墾は共同作業であっても所有は一人のものとなります》というのは全体の論議にうまく農民を結びつける感じ。

 しかし、ヘーゲルは世界精神のあらわれとしての市民社会が大好きですから、《国家統一のために強制や暴力を農民はまぬがれることはできないが、農民がそれに耐えることによって、国家が維持され、内部の体制がととのう可能性がうまれます》と農民は犠牲になってくださいな、とつめたく突き放す感じ。農民とは《あれこれ反省することは少なく、自然に即して考えを進める。だから、自分の知性や活動を強く自覚することはありません》なんてあたりは、ヘーゲル大先生だから許される言いぐさでしょうか。一般的に農民は《法(正義)にかんしても実直にしたがおうとします》が、なかには《スイスなどには裁判好きの農民もいるようですが》なんてことまで語った上に、神学生も聴講しているからでしょうか、農村における説教論までご丁寧に語ってくれます。曰く《心を高揚すせるような話を、自由な創意を混えて話すというのは、農民階層には無用です》。

 ここらへんは厳しいというか、現実的というか、なんというか。《いまでは、貧乏人にむかって福音書が説教されるのはまれで》《すぐれた法律家や神学者たちが農民よりも他の階層と相性がよくなってくる》とまで語ってくれるわけです。いやー、ほんと、独走状態。いまでは、こんなことをハッキリ云ったらスキャンダルですよね…。

 ということで、脱線を交えつつ、ヘーゲル先生はここらあたりで農民に関する論議を打ち切ります。

 さて、都市における市民はどうでしょうか。商工業層は市民社会の中核であり《自分の権利を守るために、こまごまとしたとりきめをする必要があり、当然、司法機構も精密なものにならざるをえない》。なぜなら、彼らの財産は農民の財産ほど不変ではなく、彼らの自立は不安定さがつきまとうから。

 商工民は手工業階層、機械工業階層、商業階層にわけられるとして、特に《商業階層は世界を股にかける階層であって、交換という一般的・抽象的な目的を果たすべく、自分の祖国や個々の国家の枠を超えて活動》するようになり、《国家が利息つきの金融を利用するようになると、国家の経営が、それ自体で独立した貨幣経済に依存するものとなります》というあたりは、マルクスもずいぶん影響を受けたのではないでしょうか。

 軍人、法律家、医者、聖職者、学者などが属する公職層に関して分析し、《市民社会においては、各人の思いやわがままがそれなりの正当性をもち、社会に貢献し、社会に栄光をもたらす》と市民社会賛歌を再び謡ったあと、各人は自分が勝手に選択した階層に属さなければならない、と語ります。

 《個人は最初のうち(とくに若いころには)特定の階層のどれかを選択するという考え方に反抗し、そんなことをするのは自分の一般的な使命が限定され、たんに外的な必然性にしたがわされるのだ、と考えがちだが、それは、一般的で非現実的なものにこだわる、抽象的思考である》(p.409)

 というのは今のフリーターやニートと呼ばれる方々に読んでもらいたい言葉です。直後の《大人物たらんとする人は自分を特定しなければなりません。抽象的にいえば、精神的個人は、精神的存在ないし現実的存在となるために、日々の生活を受け入れなければならず、日々の生活を受けいれることは、特定の職業人として生きることです》というあたりも含めて、ぜひ。

 いろいろ云ってはいるけど《欲求を満たすことが最終の目的となります》と自由を至上のものとする考え方はいささかのブレもみせません。

 《商業が目的であり、法は手段だと考えるとき、国家において産業がなりたつには、法が支配していなければならず、法こそは絶対の手段だということもできる》。

 いいですねぇ。

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