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May 18, 2006

『法哲学講義』読書日記#15

 またまた、ちょっと時間があまっているので、[第三部 共同体の倫理][第二章 市民社会][A.欲求の体系][(b)労働のありかた]について、チラッと。

 文明社会における欲求の充足は、他人より先に手に取って所有権を主張するという原始的な方法ではなく《すべてのものはすでにだれかの所有物だから、わたしがなにかを手に入れるには、他人から、しかも、労働によって、手に入れるほかありません》というあたりまではごく当たり前の云い方。

 しかしながら、またまた現代の水準では言い過ぎなことも言ってくれます。修道院のスープやむきだしの寄付金によって生きながらえている《貧乏人や困窮者は》《施しもので生きるという点では、奴隷も乞食も似たような境遇にあるといえます》というあたり。ここらへんの言葉は、相変わらず荒々しい。そして《金を施すより、労働の対価としてだけお金を支出するほうがずっと道徳的です。それによって他人の自由を承認することにもなるのですから》と、ここでも基準になっているのは自由。そして全体の暮らしが慈善を土台とするより、産業を土台として成立している社会の方が、はるかに人間的だ、と語った後、慈善に関連して宗教批判にも話が飛んでいます。曰く《知性の放棄を人間に求め、理性や信念の鈍磨をねらいとする》ような宗教は《神はそれらを正当化も尊重もしない》と。

 さらにヘーゲル先生は《消費したものが生産的な働きをするのです》《活動こそ文明人の生命であり、文明人の生きがいなのです》《労働が一般的に清算するのが共同の財産です》と語っていきますが、労働そのものについても、今でも通用するようなことをキチッと予言しているところがなかなかスゴイ。

 それは分業の結果、労働は細分化されて抽象的で単純なものになり、一部分で熟練すればするほど全体に関しては未熟となり、最終的には人間の代わりに機械が据えられ、人間は単にそれらを監視するだけになる、というあたり。

 《こうして、労働の完成がもたらすのは、労働者の鈍磨と、最後は、人間がいらなくなるという事態です。残るのは知性の労働だけ、というように事態は進み、変化していきます》、と。

 これは今でも真実なのではないでしょうか。

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