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May 12, 2006

『法哲学講義』読書日記#12

では[第三部 共同体の倫理][第一章 家族][B.財産][C.子どもの教育と家族の解体]を読んでいきます。頁数でいえばpp.346-364です。

 [B.財産] ここでいい表現だな、と思ったのは《所有物はそのまま目の前にあるものだが、財産はそうではなく、あらゆる所有の可能性をふくむもの、したがって、持続するものです》というところ。そして素早くフェミさんたちに挑戦するような御言葉が!

 それは《財産の運用には特別の配慮が必要で、それは夫にむいていて、妻は夫を信頼することです》というところ。ここは特に、フェミニストならずとも、フツーの日本の女性たちにも反感をかうところではないでしょうか。

 日本では網野善彦さんの業績からもあきらかなように、日本では封建時代以降も女性が財産を保有していたし、近代以降も家族のサイフを握っているのは奥さんというのが一般的だと思います。でも、知ってる限りで、欧米の家庭では、反対に旦那さんがいっさいの出納をとりしきる、という方が多いように思う(違いますかね?)。ぼくは、いま欧米ではヘーゲルが忘れさられているようなもんじゃないかと思っているのですが、それは、出来たばかりの普遍にガッチリ理論的根拠を与えたものだから、もう骨肉化されちゃっていて、改めて読まなくってもいいんじゃないか、みたいなところも少しあるんじゃないかと思うのですが、どんなもんなんでしょうかね。ヘーゲルに関しては、本当に独学もいいところなんで、素朴なギモンみたいなのを、ゼミで話すみたいなことをやったことないんですわ。だから、ヘンなこと云ってるかもしれませんが、お許しを。

 というところですが、ここらあたりでは「少なくとも、むかし母権制だったことがはっきりしているのは日本だけだとおもえる。これは一種日本に固有の特殊性と見ていいようだ」という吉本隆明さんの『家族のゆくえ』の一節も思い出しました(p.139-)。財産に関してはこんなところでしょうかね。とにかく、家族の財産は、一家が解体したときに分けあたられるものだ、という考え方にはハッとさせられます。

[C.子どもの教育と家族の解体] 《子どもは両親と口論してはいけないし、義務の履行が法の形式をとつて強制されてはなりません。法の形式が登場するのは、子どもがすでに分離・独立している場合です》と財産のところで書いているので、[C.子どもの教育と家族の解体]の内容も推し量れそうなものですが、最初はいたって感動的。

 《内的な統一としてあった精神性が、目に見える統一体になる》というのが子どもだ、というわけです。いささか、引用が前後したりしますが《このつながりは、うみだされたものがうみだすものになるという、世代の無限の過程を作り》だし、《子どもは、家族の共有財産によって養われ、教育される権利をもっている》。

 しかし、ヘーゲル先生の場合は「さすがに良いこと云ってんな」と思うと、すぐに反発を買うというか、ものすごいことも素早く云っていまうというクセを持ってます。ここでも、せっかく感動的なハナシだったのに《子どもは、類にふさわしくない外面的な存在-いち個人-です。子どもがそのまま一般的な類だとはいえません》と冷水をあびせかける。一般的な類ではなく、自然状態にあるのだからそうした《自然状態にとどまる自由をこらしめ、世の常識と意志を注ぎこむのをねらいとする》しつけ、罰が必要だと力説もします。

 でも、ここで読むのをやめちゃうと、さらなる感動は味わえません。《人間は、しつけの過程を通りすぎるなかで、その欲望を投げすて、我欲を抑え、道徳ゆや共同体の倫理にかなう行動様式を身につけなければなりません》《したがうことを学ばなかった人は、命令することもできない。服従は自由な人間らなるための手段です》《子どもは、家族のなかで肯定されて生きるとともに、否定されて、家族の外に出ていくよう教育されます》。

 なかなか感動的じゃありませんか。そして、冷静でもある。子どもは親から厳しい教育としつけを受け、やがて外に出るわけだから《子どもは全体として親をそれほどには愛さない》。なんか理論的にこんなこと書いていいんだろうと思うのですが、すごい。そして、子どもは家族の外に出て自立しなければならず、そうできずに《親の脛をかじっているのでは、隷属者であって、成人ではありません》と手厳しい。

 家族は解体するものだ、という考え方は渋いな、と思うのですが、そこから《家族内の個々人が自立すると、財産は共有という形を維持できなくなる。自立した人格となった個人は独立の財産を所有します。財産が私有財産でなければないらないので、それが肝心な点です》という視点が生まれてくる。

 ヘーゲルは遺産についても思考をめぐらします。

 "そもそも論"からいえば死後に財産の分与を指示できる遺産相続という制度には矛盾がある、と。なぜなら《死んだ場合にはあらゆる所有権が消えてなくなるのですから》。鋭い。しかし、所有物は最初にそれを手にした人が新しい所有者になるのだから、家族の一員が死んだ場合は《日頃から死者の近くにいる近親者がそれを手にとることになる》ということで、認められるという。素晴らしい…。そして、一員の死によって家族は解体されバラバラになるのだから、わがままの認められる余地が増えると考えられるから遺言では友人や知人への配慮も認められるのだ、と。《そこでは友情にもとづく家族がなりたっているといえます》とも。

 さて、次に進む段階にきました《家族が解体したあとには、市民社会が登場します》。そこでは《愛や信頼といった自然の段階にとどまる共同体的な統一が、もっと高度な形態を求め、愛の形を超えた、自由な精神に基づく統一を-感情的精神ではなく、自覚的で意志的な精神にもとづく統一を-求めます》。つまり《家族の感情的な一体感は、ついには、自由で自覚的な共同性(一般性)へと純化されます》ということで[第三章 市民社会]に入ります。

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