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May 10, 2006

『法哲学講義』読書日記#11

 いまからつらつらと書いていくのは[第三部 共同体の倫理][第一章 家族][A.結婚]についてです。頁数は324頁以降。ようやく半分を超えたあたり。

 まず、ヘーゲルは結婚の原理とは何かについて、いつものようにゴリゴリと語り始めます。

 まずは性の関係としての結婚という考え方。しかし、この原理では結婚の排他性、期間、一夫一婦制について問題の糸口すらつかめない、と切り捨てます。次に単なる市民的契約として見る立場。《人格の関係を物の関係と見て、たがいの使用法という形式のものに契約を結ぶ》という考え方。しかし、これも感情面からも神経を逆なでする、と排します。三番目は愛の形式としてとらえる見方。しかし、これでは共同体の倫理にはなりえない、とします。

 《となると、結婚は、愛を形式とはするが、法的に確定された愛を形式とするもの》ではないか、と結論づけます。《個体は、第一に、内部の過程として消化や自己保存の活動を行い、第二に、無機の自然との関係として食べたり飲んだりがあって、この関係のなかでは、個体としての生物が他の個体と対立しますが、種を内にふくんで種の現実を維持する統一の関係-性の関係-においては、おのれの自立性を放棄し、他と一体化します》というわけです。そして《自然的統一の要素が、共同体の要素に組みこまれ、共同体の承認を得ることになる、それが本質的な点です》とします。

 なかなか感動的なこともいうわですよ、ヘーゲル先生は。

 例えば《結婚に同意するとき、二人は人格として立っているが、同意の内容は、以後はもはや人格としてむきあわない、という点にある。別々の独立した人格としては最後の意志行為といってよく、二人はもはや自分の意志を行使せず、二人で一つの意志たらんと意志するのであって、以後、各人の意志は共通の意志のいらわれて見なされます》(p.328)なんていうあたり。

 しかし、ここからがフェミニストの方なんかが読んだら、怒りのあまり過呼吸になってしまうのではないかと思うような、今となっては過激な発言のオンパレード。以下は、読みたい方だけが読んでください。

 結婚において大切なこと何か。ヘーゲル先生の答はこうです。

 《大切なのは女が男を愛することで、それというのも、男は夫となるべき人、自分を妻にしてくれた人だからです。女には、自分の本来の値打ち、本当の価値は妻となることではじめて得られる、という意識がある。だから、夫は妻の裁判官であり、妻が夫を愛するのは、夫によって本当の使命があたえられたからだ、ということになる。その使命に打ち込むのが妻の仕事です》(p.329)。

 では男はどうなのか。《夫は妻よりわがままです。夫のほうが結婚生活に縛られることが少なく、その使命が結婚によって満たされることもなく、そこは妻とはちがいます。その点で、結婚について妻ほど関心をもたないともいえるし、自分の選択に大きな価値を置くともいえます》とあっさり。

 強烈な御言葉はまだまだ続きます。

 《肉体を捧げることで女は名誉を放棄するのに、男はそこまでは行かないか、そんなことはまったくないかで、その点、男女は平等ではない》《女の生きる場は本質的に結婚生活に限られるから、そこで信用を落とすと、男よりもそれが重荷になります》(p.335)、《女も教養を積むことはできるが、高度な学問や哲学や大芸術制作には向きません》(p.338)、《女は男ほどすぐれてはいないし、男の性格の大きさには及ばないともいえるが、一方また、男ほどわるくはなく、善か悪かの一方がどういようもなく固定される男と違って、善と悪がほどよく統一されているともいえます》(p.340)。

 まあ、こうした偏見は時代に限定されたものといえますが、しかし、ヘーゲル先生の目は時代に限定されてばかりはいません。《人びとの反省力が高まってくると、結婚したいとしたくない、気に入ると気に入らないとが多様化してきて、みんなわがままになり、結婚による統一も、特殊な性格に左右されやすくなります》とちゃんと現代を見通している。

 意外なのは教養人は結婚に慣れるのが容易だ、と云っていること。結婚は相手に慣れる必要があるが、教養人は我欲とわがままを脱却した、共同的なふるまいをするから、というんですが、どんなもんなんでしょうかね。

 プラトニックラブは二重の意味で間違っている、という論議は割と有名なところではないでしょうか。プラトンが愛(エロス)というとき、それは異性間の愛だけでなく、イデア(理念)への愛をもいうのだから、まず名前の付け方がよくない、とひとくさり。さらに、精神の真のありようは、国家における行動や芸術や学問によってうみだされるもので、プラトニックラブのようなものは精神の至福ではない、としたうえで、《異性間の愛がなりたっているかぎり、感覚や自然の側面は不可欠の条件であって、精神面だけをとりだして絶対視するのはまちがいです》と語ります。

 そして近親婚に関しては、原理的に《生き生きとした統一をなすには、対立し分離していることが必要》ということから反対するが、どこまでを近親婚とするかの線引きは難しく、税を重くすることで近親婚の負担を重くしてはどうか、と提案します。

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無題  ポオル・ヴヱルレヱン


空は屋根のかなたに
  かくも静かに、かくも青し。
樹は屋根のかなたに、
  青き葉をゆする。

打仰ぐ空高く御寺の鐘は
  やはらかに鳴る。
打仰ぐ樹の上の鳥は
  かなしく歌ふ。

ああ神よ。質朴なる人生は
  かしこなりけり。
かの平和なる物のひびきは
  街より来る。

君、過ぎし日に何をかなせし。
  君今ここに唯だ嘆く。
語れや、君、そも若き折
  何をかなせし。

Posted by: Masa | May 11, 2006 at 12:53 AM

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