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May 07, 2006

『法哲学講義』読書日記#10

 連休中ということもあって、友人と会って飲みながら話す機会が多く、感謝な一週間でした。みんな結構、読んでもらっているらしく、ありがたい限りなのですが、やっぱり「なんで、いまヘーゲル全部読もうとしてるの?」と訊かれるわけです。

 面と向かっては酔っぱらってる場面でも気恥ずかしくてあまり語れなかったのですが、えー、それはですね、やっぱり西洋哲学というのが普遍だと思っているからですわ。そして、西洋哲学は聖書の注解からはじまって、紆余曲折を経て、ヘーゲルという大きな湖に流れ込み、そこから、また幾筋もの河となって流れ出しているんじゃないかと思っているわけで、いつかは、ちゃんと改めて読みたいと思っていたから、それを実行しているわけです。

 「西洋哲学というのが普遍だと思っている」なんて書くと多元論者からクレームがくるかもしれませんが、吉本隆明さんが『戦争と平和』文芸社、2004の中で書いているような"時間としてのヨーロッパ"という風に対象を限定するとヨーロッパが普遍だと考えるのはムリがないのではないでしょうか。普遍なのは「近代以前じゃなくて、一八世紀以降の時間というものがヨーロッパだというふうに考えなければいけない」(pp.86-87)という具合に対処するにしても、それをぼくは認めます。もちろん、普遍としてのヨーロッパは、もしかして"アフリカ的段階"の思考を取り入れなければ、再生できないところにきているのかもしれませんが、とりあえず、完成したての普遍としてのヨーロッパを人生の半ばにして、深く味わってみたい、ということで読みすすんでいるわけです。

 もちろん、ヘーゲルの語る普遍は完成したての普遍ですから、スゴイことになってるところが多々あります。特に今回、紹介する[第三部 共同体の倫理]の「第一章 家族 A.結婚 B.家族の財産 C.子どもの教育と家族の解体」なんかはフェミニストの皆さんが読んだら血の気がひくようなことがドーンと書いていわけです。多少、紹介するのもためらうのですが、できたてのホヤホヤの普遍の思考を味わってみるのも悪くない。実践的にいっても、例えば欧米の家庭では旦那さんがサイフを握ることが多いと思うのですがそれはナゼかとか、欧米では子どもへの体罰が厳しく行われていたのはなぜかとか、そんな昔から思っていたギモンにも「ふーん、こんなところからそういった考えはきているのかもね」と思うような場面があるとのではないかと思います。つまり、普遍のヨーロッパの基礎となっているのはヘーゲルの考え方ではないかな、なんて。

[第一章 家族] 《§158 家族は、素朴な精神の共同体であって、愛という感情的な統一を基礎としてなりたつ。そこで要求される心のかまえは、家族という完全無欠の本質体の統一のうちに、自分の個性が組みこまれていることをみずから意識し、その統一体のうちに、自立した個人としてではなく、その一員として存在することである》

 いきなり、簡単になったと思いませんか?やっぱり、ここらへんからはお得意の論議に入っていくから、かみ砕かれているというか"還相"の過程に入っているというか、わかりやすい。「第二部 道徳」のつまらなさは、申し訳ないけど、ヘーゲル先生の考えがまとまっておらず、ムズカシ的な段階にとどまっているからじゃなかったのかな、とも思ったりして。

 家族においては主観性に価値があり、それが感情の形をとると愛になるが、愛の感情は国家のうちにはもはや存在せず、統一が明確に対象化されて内容は理性的になる、なんてこれからの長い射程を語ったあと、「愛」の定義に入っていくわけですが、それもヘーゲルらしく、カクカクっといくわけです。

 まず第一に《愛は自立性の否定なのです》。いいですねぇ。なぜかというと《愛とは、わたしがなにかを必要とし、不完全だと感じているということであり、わたしが自立していることは、愛という点からは、好ましくない》からだというわけ。

 第二に、この否定のなかで、男女の《双方の人格が、他の人格のうちに他人と自分の意識を、両者の統一の意識をもつ》ようになる、と。

 ヘーゲルは嘆息します。愛は分析的思考ではとても手が終えない、と。《点としての自己意識ほど強固で頑固なものはないのに、それが否定され、しかも肯定されるのですから》《愛は矛盾の不在ではなく、矛盾の解決なのです》。

 ここらへんはなかなかいいのですが、ヘーゲル先生は、家族は愛せるが、果たして同じように人は国家を愛せるのか、と思考実験を進めます。ここの答はなかなか見事だと思うので引用します。

 《理性的な国家のものでは、特殊な主観は満足できない。感情におけるように個人の独自性が承認されるということがなく、国家への個人の貢献だけが、つまり、個人の教養と技量と能力だけが、一般的に承認されるにとどまる》と(p.321)。

「愛国心はならず者の最後の拠りどころ」とまでは云わなくても、ネオナチっぽい人たちや日本でもネット右翼のような人たちが外国人や隣国への差別感情を掻き立てるのは、愛国心を持ったとしても「感情におけるように個人の独自性が承認される」ことはなく、「個人の教養と技量と能力だけ」しか承認されないことに不満で、その不満を近場の弱い対象にぶつけているという風に考えられないでしょうか。もちろん、彼らの「リベラルかつ適度にレフトであることは、皮肉にも社会的上昇の資格証明ともなっていた」という欧米や現代日本の知的・文化的体制の矛盾に反抗するという気分はある程度は理解できるにせよ(『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』三島憲一、岩波新書)。

 休みなもので、どうも話が脇道にそれますので、戻ります(まだ3頁分もいってない…)。

 家族という共同体は成員の特殊性が愛の中で統一され、放棄されているので、法(権利)は、家族の解体という観点からしかなりたたない、といういかにもヘーゲル的な云い方から§159では、家族の法(権利)が個々の個人の権利としてあらわれるのは、家族が解体に向かって、財産、扶養費、教育費などが目に見える形で受け取る場面だ、といいます。

 魅力的なのは次の云い方。逆に云うと《愛を要求する権利はなりたちようがなく、要求できるのは、相手は本質的にかかわりのない外面的な義務の履行のみで、その点にかぎっては、統一を実のあるものにできます》。厳しいですね。さらにヘーゲルは続けます。《愛を承認するところに家族はなりたつが、法(権利)をもって愛を強制できないし、愛を要求する権利などありえません》。「愛を要求する権利はない」と。

 次は[A.結婚]ですが、ちょっと長くなったので次の日にします。

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