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April 30, 2006

『法哲学講義』読書日記#5

 ここでヘーゲルがいいたいことは、契約とは過程である、ということ。どういう過程かというと、所有物を放棄しようとする意志と、それを受け取ろうとする意志の媒介関係なのだ、と。そうやって得たものは、共同体の意志に認めてもらうために、抵当登記簿や所有証が発行される、と。そしてこうした意志を拘束する法は、特殊で偶然の意志としてではなく、まさしく法として存在し、近代以前とは違う、と。君主などによる役職の人事権や裁判官の任命権などが消滅したことは革命だった、と。

[第二章 契約]

 §72と73は74はヘーゲルにしては非常にわかりやすく書いてくれているという感じを受けます。《契約とは、わたしが、他人の意志を排した専一の所有者でありながら、他人の意志との合意のもとに所有者であるのをやめる、という矛盾がそこに示され、そうした矛盾に媒介されるような、そういう過程である》。

 これを受けての73はまさしくヘーゲル的ないいまわしを堪能できます。《わたしの意志が形あるものとして対象化されるためには、どうしても所有物を譲渡しなければならない》というんですよ。《譲渡されたわたしの意志は他の意志である、概念の必然性が物のもとにあらわれるこの関係のなかで、別々の意志がその違いと独自性を放棄して一つになる》と。ヘーゲルが重視するのはこういう「過程」なわけですねぇ。

 《この関係は、独立の所有者同士が、絶対の区別のなかで意志の一致を図るような媒介関係であり》《個別の所有物を放棄しようとする意志と、他人の所有物を受け取ろうとする意志の媒介関係》なのだ、と。

 近代以前はどうだったか、というと、《君主の偶然の暴力が国家を取得することによって成立したものと考えられることは可能で、そのとき、政府の法(権利)は私有財産のごときものと考えられます》。フォン・ハーラーの『国家学の復興』によると、政府のすべての権利を偶然に取得された支配権と見ることができるというのです。つまり近代以前は支配権が売買や贈与が可能だったが、17世紀には消滅した、と。
 
 契約は贈与契約と交換契約のふたつがあるという議論の後、近代においては、意志を拘束する法は、特殊で偶然の意志としてではなく、まさしく法として存在する、ことになったということが改めて強調されます。

 面白いな、と思ったのは所有や履行が外的・経験的だという論議。

 そして不法行為は、わたしたちの特殊な意志に反する行為ではなく、法(正義)に反する行為だということで、次の「第三章 不法」につながります。

ここではあまり、脱線というか過激な発言はなかったですかね。

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