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April 28, 2006

『法哲学講義』読書日記#4

 長谷川版『法哲学』ですが、どんな感じで読んでいるかというと、まず、609頁以降に収められている『法哲学要綱』の当該§を読み、だいたいの流れを掴んでから、『講義』でヘーゲル先生に解説していただく、というような感じ。それでも、[第二部 道徳]の最初のあたりなんかは一通り読んでも、まったくわからない。そんな場合は、ドイツ語の原典にあたればいいんでしょうが、あいにくドイツ語は不自由ときている。しょうがないので、そんな場合はわからないなりにも藤野・赤澤訳を開くと、ハッと意味がとれる場合があります。別の角度から見ると立体視できるというか。まあ、そんな感じで情けなくやっているわけです。

[C.財産の譲渡]

 [第一章 財産]では物と所有との関係、次に物の使用について語られてきましたが、ここでは《価値としての物の所有が問題となります》《特殊な性質をもつ物が、その特殊な性質を捨象されて一般的にとらえられるとき、そこにあらわれるのが物の価値で》《物の全面的な所有者であるこということは、物の使用権のみならず、物の価値をも所有しているということ》だといいます(p.141)。

マルクスの言葉でいえば、使用価値と価値実態ですかね。マルクスは、そこから商品の中に表現された労働の二重性を見て、価値増殖過程をあきらかにするーということになると思うのですが、ヘーゲル先生の場合は、その手前の段階で、しつこく分析するんです。

 物には物一般などというものはなく、特殊な性質を持つのですが、人間の欲求と関係することで、使用によって物の一面は消滅したりする、と。さらに、人間の欲求が共同の欲求へと向かうと《特殊な性質を持つ物が、特殊性を失って量的に量られるものとなる。こうして性質の違う物がまったく同質のものとしてあつかわれ、畑地と家が同じ量の価値をもつとされ》る段階にくる、と。

 ここからの展開がまた面白い。封建制度の封土の所有者は、使用権しか持っていないために、完全な所有者ではない、という例を出してくるんですね。まあ、だから、封建制では交換が制限されるわけで、物の否定(自分のものでなくなる)から発生する譲渡や交換といったダイナミックな過程は生まれにくい、ということなんでしょうか。運動なんですよね、ヘーゲル先生がいつも強調するのは。いったん否定され、止揚されるという。その運動によって、合理的なものが現実的なものになっていくんだ、と。財産の譲渡とは否定である、というのは本当にヘーゲル的な発想だと思います。

 貨幣に関してもヘーゲル先生は語ります。

 《次に考えるべきは、価値が完全無欠に対象化され、価値そのものを本質とする物が登場する場合で、それが貨幣です。貨幣の所有は人間の思考にふさわい、もっとも知的な所有です。ここでは、欲を満たす物がただ価値として所有され、使用のしかたはほかの物とはまったく違います。貨幣の所有は、価値としての意味しかもたず、価値がそのまま実在するのが貨幣です》《知性の面からいうと、所有される物が一般的存在であることが重要です。したがって、貨幣は知性のあらわれであって、国民のあいだに貨幣が存在するのは、高度な文化段階にあるあかしです》(p.145)。

 なんてエレガントな論法でしょうか。

 マルクスは資本論で20エレのリンネルが一枚の上着と同価値で…と延々と価値形態論を進めていくんですが、最初に読んだとき、まったく意味がつかめなかったんですよ。というより、そこに価値が見いだせなかったんです。でも、まあ、それでもありがたいモンだからということで、読んでいったわけなんですが、だいぶあとになって岩井克人さんの『貨幣論』を読んで救わました。岩井さんはマルクスの価値形態論は循環論法である、とハッキリと断言してくれたんですね。そうだったのか!なんか無意味っぽいと思っていたけど、あながち間違いじゃなかったんだ、と。まあ、岩井さんは、循環論法に絶望することなく《商品世界がまさに「循環論法」によって存立する構造をしている》(p.42)という具合に論を進めていくわけですが、とにかく、まあ、ちょっとヘーゲルから離れたので、元に戻ります。

 次にヘーゲルが考察するのは、技能や才能の価値について。《わたしの技能によって、わたしは物の形を作りかえ、わたしの欲求に合った形にします。ここでは、わたしの意志が所有物のうちに対象化されるだけでなく、わたしの精神、わたしの内面もまた対象化されます》(pp.145-146)。ここの表現、しびれました。もちろん、芸術作品、書物、発明品は価値を含み、譲渡することが可能だ、と。

 ここでまたポストコロニアリズムうんぬんなんて語っているようなの人たちが聴いたら卒倒するようなことをブチかまします。《エジプトやギリシャからたくさんの芸術作品をもちさったとして、イギリスト人を非難する人たちがいます。それらはギリシャ民族の精神に属するものだ、といって。が、いまではもうその言は当たらない。それは略奪でも冒涜でもない。作品は外面的な価値しかもたず、その精神や魂は消えさっているのですから》。ギリシャの彫刻などは民族にとって絶対的なものが投入されていたのだが、移ろいゆくものの信仰がなくなれば絶対的なものではなくなる、というわけです。もうなんつうか独走状態というか、誰も付いていけないというか、いやー、素晴らしい割り切り方です…。

 この後、フランスと比べてドイツには文学に名誉を重んじる気風がないからシラーは貧困のうちに死を迎えたが、もしシラーがフランス人だったら100万フランを手中にしていたろうとか、知的所有権の意識の薄かった当時のドイツの現状を嘆いたりするところも面白かったですね。

 そして、次にいよいよ、本論というか、重大局面に入ります。それは一つだけ譲渡できないものがある、という論議。私たちは所有物を手放すことはできるが、所有能力だけは手放せない。《わたしの人格性、万人共通の意志の自由、共同体の倫理、宗教など》は譲渡できないのだ、と(p.152)。

奴隷には昔から逃げ出す絶対の権利を持っていたし、逃走の権利に時効などはない、という議論も新鮮でした。そうか、アジール(逃れの町)なんかは逃走の権利は絶対的なものである、という原則からきているのか、なんて考えてしまいました。

 ここからヘーゲルは人間賛歌を謡いはじめます。もちろん、ヘーゲル流に。

 《生命は外的活動の全体を包括するものです。わたしは自分を外に出して、自分を表現し、客観化しなければならず、そのように外化されたものが理念のもうひとつの面です。生命とはこの外化の可能性の総体です》。

 カッコ良くないですか?

 《多くのものを、いや、最高の希望までも失い、生きていく意味がないに等しいと思える場合でも、無限のゆたかさをもつ精神の深みに思いいたれば、その喪失など、それほど嘆くには当たらぬ、特殊なものにすぎないのがつねです》あたりもいいなぁ(p.156)。

ヘーゲルはこうまとめます。《わたしたちの歩みをふりかえると、出発点は、なんらかの個物を所有しようとする意志の関心にあり、ついで、個物の一般的な性質が問題となり、意志が物の全体と関係することになり、第三に、意志と一般的な価値-といつてもその価値は限定されたものですが-との関係が問われました》《さらに進んで、わたしのもちたいと思うもの、わたしの意志の対象化されたものが、意志の一般性としてあわらわれる段階に至ります》《この点までくると、わたしの意志は共同の意志です》《個別の意志から共同の意志への移行がおこなわれ、共同の意志が対象となり、形をとっていらわれることが求められ、それを満たすのが契約です。契約はわたしの意志が共同の意志としてわたしの対象となるような、そういう意志のありかたです》(p.158)。

 ということで、第二章は「契約」に移ります。

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