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April 26, 2006

『法哲学講義』読書日記#3

 マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で《ドイツの国家哲学と法哲学は、ヘーゲルによってもっとも首尾一貫した、もっとも豊かな、もっとも徹底したかたちで示された》としています(p.83、岩波文庫、城塚登訳)。もっとも、この序説では、『法哲学』そのものに関してはあまりふれらず、タンカを切るだけで終わってはいるのですが…。なんでマルクスかというと、今回、ご紹介するあたりを読んで『資本論』の資本の一般的定式、つまり商品の貨幣への転化および貨幣の商品への再転化(W-G-W)と貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化(G-W-G)なんていうのは、やっぱり、ものすごくヘーゲルの影響受けていたんじゃないのか、というのを感じたから。

 多くのマルクスボーイは、やっぱりマルクスの本をガーッと読んで、ところどころに出てくるヘーゲルへの言及なんかは多少の畏れはいだきつつも、「まあ、超えたからいいわな」と軽く思っているわけで、ぼくも安直に飛ばすのではなく、ちゃんと10代からヘーゲル読んでおけば、違った人生もあったかな、なんて考えたりもします。20代で独学で読みはじめたりはしましたが、武市健人訳や金子武蔵訳では歯が立ちませんでしたので、結果は同じだったかもしれませんが。あの頃、長谷川宏さんの翻訳を読めたら…。まあ、この歳になっても、読めるだけで幸せです。

 今回は第一部「抽象的な正義(法)」の第一章「財産」と第二章「契約」までをご紹介します。

 第一章「財産」は「A所有、B物の使用、C財産の譲渡」と論が進められ、第二章の「契約」につながる、という流れです。

 なんでいきなり所有から話しが始まるのでしょうか?前の読書日記でも書いたように、ヘーゲルはやたら自由、自由、自由が大切、自由が正義(法)の基礎とゴリゴリ話を進めていくんですよ。で、第一部はいきなり、こう始まるんです。

 《抽象的正義(抽象法)においては、自由は個々人の自由な主観としてあらわれ、それが物の形をとったものが財産です》

 もうしびれます。そして財産のありさまをみていくと、第一には目の前にある財産で、第二は契約の同意によって他人の自由意志に媒介された財産、第三は他人の自由意志によって奪い去られた財産のとりもどしであるとして、《他人の意志を否定することによって、自分の財産、自分の法(権利)へと還っていく過程がそこにはある。以上が全体としての財産の議論です》とパースペクティブを提示する(p.91)。いやー、ほんと、かなうものならば、一度でいいからヘーゲルの講義を受けてみたいですね。

 しかし、いきなり世の進歩主義者たちが眉をひそめるようなことを平気で語ったりします。《奴隷や未開人が人格をもっていないのは、かれらが思考しないからで、子どもの場合も同じです》《動物は生きた存在ではあるが、自由な存在ではないから、尊重すべきものではありません》(p.94)。

 今日は憲法九条のことでつまらぬ論議をやったのですが、マッカーサーが戦争放棄の条文を持ってきたのは、戦前の日本人を「精神年齢は12歳」と文字通り考えていたからなんじゃないかとフト思いましたね。ヘーゲル的な近代合理主義の根本には、やっぱり奴隷や未開人や子どもは人格を持ってないし、動物は人間に喰われるために存在している、という強烈な意識があるんだろうな、と。もちろん、イラクに対しても持っているだろうし。ただ、文化的多元主義も尊重しなければいけないだろうから、表だっては云わないだろうけど。

 次にしびれたのがコレ。《わたしが権利をもつというのは、わたしの自由が外的な物のうちに対象化されることです》(p.96)。対象化ということがイメージできない方には、この良さが分かりにくいとは思うのですが、この言葉に多少慣れているような方には「うわ、なるほど」という感じでしょう。そして、自由には具体的な形があたえられなければならないとして§40《自由は、まずもって目に見えるものとして形をあらわすので、法(権利)を実際に適用されるのは、まずその形にたいしてである》ともってきます。

 いいですねぇ。この後、さらに「物を、自由にとって外的なものという一般的な意味にとると、わたしの体や生命も物に属することになる。それをふくめた物件法が人格の法である」(p.101)というところまできます。

 ちなみに、藤野・赤澤訳の§40は《権利ないし法はまず第一に、自由が直接的な仕方で自分に与えるところの直接的な現存在、すなわち(a)自分のものとしての所有であるところの占有である》ときます(世界の名著版、p.233)。うーん、やっぱ、コレじゃわからんですよね…。長谷川宏さんは偉大だ…。

[第一章 財産]

 ここでも、最初に自由への賛歌が語られます。《この章の議論は、自由を、放棄してはならぬ抽象的基礎とするものです》と(p.103)。一方、物は不自由で人格を欠いて、精神の尊敬を受けられないと規定するが、《財産は自由の最初のすがたであり、それ自体がかけがえのない目的で》《財産をもつことは、わたしの自由が社会的に認められるためであって、それこそが理性の絶対の関心事です》とまでいう(pp.106-107)。

 さらには《人間の自由とは、自分の意志しだいで、他のすべてのものをたんなる材料となしうるほどに高度なものです》(p.105)とまで語る。

 東洋で生まれ育ったぼくなんかには、とてもそこまでは言えないな、と思うのですが、ヘーゲル先生は止まりません。《高度な文明の段階に至ってはじめて、外界の物のうちには掛値なしに尊敬できるようなものはない、という意識が人間に生じます。低い文化段階では、人びとは動物を尊敬します。多くの民族が動物を崇拝しているし、ユダヤ民族でさえ、血には動物の生命が宿るからといって、動物の血の飲食を禁じます》(p.105)というところまで暴走。

 次もまた意外な展開。《肝心なことは、財産が私有財産でなければならないことです》(p.107)。《共同体精神が真に自由な精神だとすれば、それは個人の自由を要求するはずが、共同体において主体は完全な自由を獲得し、自立するのでなければなりません》(p.108)、《私有財産が必要なのは、人間が個々の人格として社会的に存在しなければならないからです》(p.109)。

 なるほどねぇと読み進めると、またもヘーゲル先生は暴走。長子相続は、子ども全員への平等な相続よりも高度な正当性を持っている、と。それは長子相続は《兄弟間を引き裂く不法といえますが、この不法には国家の利益を守るという意味があって、のちに見るように高度な正当性を備えたもの》なのだ、というんです(p.111)。なんか、ひとつ原理を打ち立てると、それを地の果てまでに延伸して、とんでもないことまで語る、というのがヘーゲル先生の法哲学の講義なんでしょうか。

 《わたしが自由な肉体をもっと生きているからこそ、生きたこの肉体を役畜のように酷使することは許されない。わたしが生きているかぎり、わたしの魂と肉体は区別されず、肉体のうちに自由は姿をあらわし、肉体のうちで感覚がおこなわれる》(p.115)といいこというな、と思っても、《平等が広く特殊面にまで及ぶのが正義だ、と考えるのはあやまりです。そのような抽象的原則から論を起し、こまかな点にまでその原則を適用しようとすると、特殊なものを一切認めないような狂信が生じてきます》みたいなこともキッチリいっていまう(p.116)。さらには《動物は生存の権利をもちません、動物は自分を所有し、その魂が肉体を所有してはいるが、生きる意志はもたないがゆえに、生存の権利はもたないのです》なんてことも(pp.113-114)。イヤハヤ、もう独走状態ですね…。

[A.所有]

 §54《所有は、じかに手でつかむこと、形にすること、ただしるしるをつけること、の三種にわかれる》(p.122)。そうきましたか。《ここにも個から共同性への進行があります。手でつかむのはまったく個別的な行為だが、しるしるをつけるのは共同的な行為であって、観念による所有であり、物との観念的な関係です》。うーん、いいですねぇ。着々と論を進めているという感じがする。

 そしてモノの所有だけでなく、自己所有に関しても語る。§57《本質的にいえば、自己意識が自由だととらえることによってはじめて、人間は自分自身を所有し、他人とはちがう自分となる。この自己所有は、逆にいえば、人間の概念のうちに(可能性、能力、資質として)ふくまれるものが、現実界のうちにあらわれることでもある》。つまり外的対象だけでなく、自我も所有物として考えなければいけない、と。

 脱線気味のところで面白かったのは《モノを直接目の前にしての完全な所有は、物を食いつくすことです》(p.130)。なんか食人のことを想像してしまいました。

[B.物の使用]

 所有を抽象的に考えると、物を使用するのは、使用した側面を解体することでもある、という論議はスゴイな、と(思いましたねp.133)。さらには、所有はどうしても自由で完全な所有でなければなず、使用によって所有が完全なものになる、というあたりも(p.135)。

 だけど、ここでも《わたしが生命と意志を持つ真に肯定されるべき存在であるのに対して、物は否定されるべき存在で》《他との関係でおのれを維持していくのは、有機体の特権です》と暴走してくれます(p.132)。《動物を殺しても一族が残っていれば子孫は補充され》るので《滅ぶのはいつもほんの一部で、土台となるものは大なり小なり維持される》からいいのだ、と(p.133)。いまヘーゲル先生が生きていたら、動物愛護協会からはクレームの連続でしょうな。

 また、封建時代は支配権という考え方が有力だったが、市民社会の拡がりとともに、代金を払って所有するという考え方が浮上してきて、そのために、所有の分割も容易になったというのもスゴイ議論だと思う(p.137)。《所有が私有になるという所有の自由は、さきごろようやく原理として打ち立てられたものです。人格の自由から所有の自由が出てくるのは必然ですが、それが人間と国家に意識されるのは一千五百年かかったのです》というあたりは感動的(p.138)。

えー、次が資本論を思い出したところですが、また、明日。

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Comments

ありゃ「議論」のレベルじゃないだろ>憲法9条ネタ 笑)
ところでヘーゲルやっぱり過激っすね。この線でちょいとしばらく連載を愉しみにしておりますよ。

Posted by: あんとに庵 | April 27, 2006 at 02:10 AM

いいですよねぇ、ヘーゲル…
エンチクロペディー3部作もいきますけんねぇ!

Posted by: pata | April 27, 2006 at 07:49 AM

目の前で講義してもらってるような感じ!

Posted by: PINA | April 27, 2006 at 11:52 AM

おお、読んでいただいていますか!ぼくも長谷川さんの訳によって、ようやくヘーゲルの肉声が聞こえたような気がします。『哲学史講義』を最初に読んだ時の衝撃は忘れられません。

Posted by: pata | April 27, 2006 at 02:35 PM

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