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April 24, 2006

『法哲学講義』読書日記#2

 これまでヘーゲルの『法の哲学』の日本語訳は、主文というか、「法哲学の講義に当たって、聴講生に手引きを与える必要があった」(p.609)ということから書かれた『法哲学要綱』がまず最初にもってこられていました。ところが長谷川宏バージョンは講義録を前にもってきたのが新しい試みなわけです。

 ということで「はじめに」に次ぐ「序論 法(正義)の概念」からは、教科書ともいうべき『法哲学要綱』の§に沿って語られます。というか、講義なので当たり前なのかもしれませんが、教科書として自ら書いた『法哲学要綱』の§1「哲学的な法理論は法(正義)の理念を-つまり、法(正義)とはなんであり、それがどう実現されるかを-考察の対象とする」などをまず読み上げ、それに解説を加えていく、という具合に進められていきます。

 つまり、ここからが、本当の講義の始まり、というわけで、最初に紹介した『法哲学講義』の「はじめに」は講義に入る前のガイダンスのようなものかもしれません。ちなみに(ちょっと混乱するかもしれませんが)、教科書としてあった『法哲学要綱』の「はじめに」は、ヘーゲルの著作の中で、最も引用されるフレーズが収められているものではないでしょうか。

 それはもちろん「理性的なものは現実的であり、 現実的なものは理性的である」(p.617)。

 この他にもマルクスも資本論で引用している「ここがロドスだ、ここで跳べ」もイソップ物語で読んだというよりも、『法哲学要綱』の序文で読んだものが印象に残っていたんだと思う。そして「ミネルバの梟は、せまりくる夕暮れとともにはじめて飛び立つのだ」なんかも。

 まあ、このぐらいにしておいて、「序論 法(正義)の概念」に戻りますが、まず印象に残るのが「§4 法(正義)の土台をなすのは精神的なものであり、具体的にその立脚点および出発点となるのは、自由な意志である。自由こそが法(正義)の本体であり本領であって、法(正義)の体系とは、実現された自由の王国であり、精神みずからが第二の自然としてうみだした精神の世界である」(p.30)というあたり。

 「はじめに」でも自由ということをさかんに云うんですよね、ヘーゲルは。「わたしは、意志することではじめて自由になり、自由な意志となるのですが、この自由を可能にするのは理論の力です。自然のままの内容を一般的な内容へと高めたり、一般的な内容をつくりだしたりするのは、思考の働きなのです」(p.36)、「法(正義)の内容は自由を否定したり制約したりするものではなく、法(正義)は自由を肯定し、自由は法(正義)のうちに十全のすがたをあらわします」(p.37)なんていうところもいいというか自由礼讃。

 次に進むのが、自由の「意志」の概念の追求。ここでは、脇道が面白いんすよね。自殺できるのは人間だけだというありたりとか(p.40)、「インドでは、単純な自己同一の知にとどまることが最高の境地とみなされ」るけど、それは対象なき意識という意識の一面を示すにすぎず、内容空虚な自由が具体的な形をとると、政治の世界や宗教の世界に見られる狂信的活動となる、として宗教改革やフランス革命後の混乱を非難します。

 その非難も、またヘーゲル的というか、段階的というか、しつこいというか、論理的。「抽象的なものを求め、それが部分にわかれていることを認めないのが狂信ですから、区別があらわれると、それがおのれの純粋さを汚すものに見え、破棄しなければと思っています。特殊なものを否定することが一般的だとされるのです」(p.42)なんていうところは切れ味鋭い。「行為を欠いた美しき魂は、自分の高潔さにうっとりとなってはいますが、それは、生活というもののない無力の存在で、しだいに消耗していきます」(p.44)というあたりは、常識人ヘーゲルらしいところ。

 「どんな場合でも、真理とは、ちがった内容の統一としてはじめて具体的にすがたをあらわします」(p.46)あたりは実にヘーゲル的。「§7 (γ)意志は右の二つの要素の統一体であり、内面へと反省し、もっと一般性へと還ってきた特殊性であり、一言でいえば、個別性である」(p.47)なんかも(右の二つの要素の統一体というのは§5,6のこと)。「目的の実現は否定の否定であり、目的の欠如面の否定です」なんていうあたりもヘーゲル節(p.50)。とにかく、ここらへんの議論はまさにヘーゲル的。

次に意志が内容を特定するということ、自由意志の段階へと進みます。「なにかを意志するとき、わたしは、可能性としてのわたしのうちにある多くの内容ののなかから、どれかを決断する。その決断がわたしを外へと開き、可能性を現実性に転化します」(p.55)、「なにかを意志するとき、意志の内容はわたしの選びとった内容であり、そこにはわたしの自由が働いています」(p.56)あたりいいなぁ。もっとも、その前に「国家は自由をなりたたせる必然の条件」(p.54)というあたりで、ヘーゲルの想定する自由の輪郭も浮かび上がっているのですが(p.54)。

 さらに自由こそが本来の目的という議論に入っていき、意志のめざす目的は幸福で、幸福は一般的でなければならず、本質的に明確な内容をもたねばならない、なんて堅苦しくもゴリゴリと語っていき(p.63)、「自由を自覚した意志は、みずから意志する意志、絶対的に意志する意志です」(p.64)と、法(正義)の出発点にたったことを宣言します。

 そして所有、道徳、権利(正義)と義務の関係の概論へと進んでいき、「§30 正義(法)とは神聖なものだが、なぜ神聖かといえば、正義(法)は、絶対の概念たる自覚的な自由が形をとったものだからである」というあたりは、ハイすいません、という感じ。

 とにかく、「わたしたちが対象とするのは、自由意志の自己実現の過程であ」ることをが語られていくというのは意外な感じをする人が多いのではないでしょうか(p.85)。

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