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April 22, 2006

『法哲学講義』読書日記#1

Hegel_recht

『法哲学講義』G.W.F.ヘーゲル、長谷川宏訳、作品社

 愛するABC六本木が6月まで改装工事に入ります。加えて、このところ、人文書で面白いものがありません。というか、ここ数年、ずっと惰性で読んできたような気もする。ということで、しばらく、新刊書は無視して、かねてからの計画を実行することにしました。それは長谷川宏さんが訳してくれたヘーゲルの著作を読み直す、ということ。

 もちろん、厚さにメゲて読んでいないものもあるのですが、『法哲学講義』からはじめて『精神現象学』『論理学』『自然哲学』『精神哲学』と読み進み、『美学』で一息ついて、最後に一番好きな『哲学史講義』『歴史哲学講義』までいこうと思います。ということでこのblogもヘーゲルの読書日記にしようと思います。おつきあいのほどをお願いします。

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 先日『哲学者廣松渉の告白的回想録』を読んで、あらためて勇気づけられたのは、あの廣松渉さんでさえ、『小論理学』『大論理学』『法哲学』などは「要するに、何も分からないけれども、ただ一生懸命読んだ(笑)」ということでした(p.125)。とにもかくにもよくわからない。これは長谷川宏訳が出る前まで、原文で読みこなせた人以外ほとんどそうだったのではないでしょうか。個人的には『法哲学』なんかは特にそうでしたね。まったく意味不明で途中というかかなり早い段階で投げ出しました。

 ところが、ここでも長谷川さんはやってくれています。聴講生グリースハイムが残した講義録をまず最初にもってきて、得意の「ですます調」で一気に読ませてくれます。講義とか講演とかは、やっぱりですます調ですよね(ぼくも一冊だけ翻訳に関わった講義録のコムズカシイ翻訳では、長谷川さんっぽく「ですます調」でいきたい、という方針だけは死守しました)。

 ということで、『法哲学講義』の「はじめに」の冒頭ですが

《正義(法)の哲学を論じるこの講義では、『「自然法と国家学」もしくは「法哲学要綱」という二重の題名を持つ自作の教科書をもとに、話を進めます』》

 とあります。

 わかりやすいですよね。そうか、法とは正義なんだな、と。長谷川さんも訳者あとがきで書いているように《題名にある「法」は、原語では"Recht"だが、これを「法」とだけ訳していては、読みやすい日本語文をつくることなど到底おぼつかない。「正義」「社会正義」「正しさ」「正当性」「当然」「権利」「法」等々、場面に応じてさまざまな訳語を当てた》としています。

 「はじめに」でヘーゲルはまず自然法に関して語ります。「自然法には二重の意味があって「一つは自然のままの正義を、もうひとつは完全無欠な成語の概念を意味します」というあたりから法哲学の講義を始めます。そして、自然の欲求をあくまで守ろうとすると、国家は人工的で不自然だという考え方になるが、それは間違いだ、と。国家は人工的なものではなく、仲間を求める欲求に根ざすもので、性的な関係とともに国家へと通じる市民生活にもかかわってくるのだ、と。そして、本当の自由とは「自由の形式を持つ自由にして、はじめて理性的なものといえる」のだ、というのはお得意の論議。

 次に話を進めるのが実定法。実定法で重要なのは国家において承認されたという形式を持つなど、《法(正義)の形式が重要で、内容はそのあと》なのだと語ります。法は服従を要求するものなので、現実世界で力を発揮するためには、一定の手続きが必要なのだ、と。そして実定法は現実処理が目的なのだから《実定法学者に完璧な法律を作れと要求したり、政治家に確固たる憲法を作れと要求するのはむなしい》とまで論議を進めます。《法的な決定を必要とする事態そのものは、概念なき外的事情にほかならず、理性や知性を欠いたところにあらわれつつ、決定を要求》するわけで、笞打ち刑で何回叩いたらいいのか、という論議には正解はない、と。最初から理性的な根拠などはないのだから、実定的に決めてしまうしかないのだ、と。概念の出る幕などない、というわけです。

 次は「歴史的な正義(法)論」。奴隷制など過去の時代に正当だからといって、ただちに現在も正当だと考えるわけにはいかない、と。法の歴史的根拠を知らないから素人だと法学者が云っても、理性の洞察によって間違っていれば、それは正当ではないのだ、という当たり前のようですが、力強い近代的精神が語られます。ここまでが「はじめに」。

 長谷川さんの訳業がいかに画期的なものだったかということに関して、わかりやすい説明がありましたので、ご紹介させていただきます。えー、それは以下の文章です。

..........Quote..........

たぶん、翻訳の新しい可能性を示したという意味で、とくに重要なのが長谷川宏のヘーゲル訳である。「難解な本」のなかでも極めつきだと思われていたヘーゲルの著作を、少なくとも読んでみようと思える普通の日本語で訳したのだから、衝撃は大きかった。たとえば、以下の2つの訳を比較してみるといい。


第一部 抽象的な権利ないし法
§34 即自かつ対自的すなわち絶対的に自由な意思が、それの抽象的な概念のうちに有るばあい、それは直接性という規定されたあり方をしている。(ヘーゲル著藤野渉・赤沢正敏訳『法の哲学』中公クラシックス139ページ)

第一部 抽象的な正義(法)
§34 絶対的な自由意思は、抽象的概念としてとらえられるとき、ただそこにあるという形で存在する。(ヘーゲル著長谷川宏訳『法哲学講義』作品社、628ページ)


 ここで目立つのは、「即自かつ対自的」という訳語がないことだ。ヘーゲル哲学というと「止揚」とともに真っ先に思い浮かぶはずの「即自かつ対自的」がないのだ。原語と訳語の一対一対応という金科玉条をきれいに捨てて、原著の意味を日本語で伝えようとしているのである。いまでも、この翻訳ではan und fur sichの意味がわからないではないかという人もいる。そう思うのであれば、原著を読めばいい。翻訳の本来の任務は、原文がどうであったかを示すことではなく、原著の意味を日本語で伝えることにこそある。翻訳書を読んでも理解などできるはずがないという常識を覆して、原著を読んで理解した結果を日本語で伝えるのが翻訳だという、いってみれば当たり前のことをしているのが、長谷川宏の翻訳である。

..........End of Quote..........

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