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February 15, 2006

『歴史のなかの天皇』

historical_emprer

『歴史のなかの天皇』吉田孝、岩波新書

 皇室典範改正の論議の中で、平然と「万世一系」という言葉が使われるのが不思議でならない。少しでも学術的な日本古代史の本を読んでいるならば、崇神は「ハツクニシラススメラミコト」と神武と同じ名前で呼ばれていることや、第26代のヲホド王(後の諡は継体)でいったんは王朝の交替が行われてい可能性が高いこと(近江王朝)、「天皇」という呼称は天武から始まったこと、それに神武から応神までの15代の天皇のうち、4人を除いて、すべてが百歳以上生きたことになっていることは知っているハズだ。そうしたことを考えれば、かなりの部分は神話であることは明白。

 しかも、最後の大帝ともいうべき昭和天皇自身が人間宣言の中で「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非(あら)ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」と神話であることを認めているのに。

 えー、この部分の現代語訳は「私は国民と共にあり、その関係は、お互いの信頼と敬意とで結ばれているもので、単なる神話や伝説に基づくものではありません。私を神と考え、また、日本国民をもって他の民族に優越している民族と考え、世界を支配する運命を有するといった架空の観念に基づくものではないのです」となる。「万世一系」とか「男系」とか云っている人たちは、昭和天皇の言葉をもう一度、味わってみるべきではないのかな。

 それはそうとして、誰でも読める、天皇に関する新書が出たので紹介したい。この本の特徴としては、天皇の性格の変遷を東アジアの歴史と結びつけて、その関連の中で描こうとしている点だと思う。そして、それはかなりの部分、成功していると思う。ちなみに、「天皇制」という言葉はコミンテルンの32テーゼの中でほぼ初めて使われた言葉なので、注意が必要。ということで、面白かったところなどを、羅列してみる。

戦乱の中から新興宗教が生まれる例は多いが、卑弥呼の鬼道もそうしたものであった可能性は高く、アルタイ系遊牧民文化の天崇拝につながる「祭天」の記事が魏志倭人伝の中には書かれていないので、倭の文化は中国南部、朝鮮半島南部と類似していたらしい(p.21)。また、トヨミケカシキヤヒメ(持統)と厩戸皇子(聖徳太子)の関係は卑弥呼と男兄弟と同じような複式王権の特徴を示している(p.44)。

 ヤマトタケルは即位していないが、記紀は天皇に準じた扱いをしており、ワカタケル(雄略)の伝承からヤマトタケルの物語が後につくられたことが考えられる(p.30)。

 ワカタケル(雄略)の系統は武烈でいったん途絶え、応神の五世孫とされる傍系のヲホド王(後の諡は継体)が即位する。即位してから大和に入るまで20年かけたとされてるいが、もちろん、これは近江・越前あたりを本拠地とする豪族が長い年月をかけて大和に攻め上がり、大王位を奪った可能性が高い。また、ヲホドは応神・仁徳王朝の女性であるタカラカを后としている。こうした入り婿型の王位継承が新たな王朝の正当化に果たす役割は大きく、ギリシア神話などにも分布している(pp.30-)。

当時の大王は兄弟やイトコを殺して即位することが多かったため、兄弟やイトコの支援が期待できなかったことから、大臣や大連の支持が重要になる(p.36)。倭の王権は中国王朝からの自立とともに、国内では豪族層からの自立を目指す。そのために選んだのが近親婚。異母姉妹との結婚としては敏達と推古、用命と穴穂部間人皇女。オジとメイの結婚としては舒明と皇極、天武と太田皇女・持統がある。内婚化は複式王権の伝統とも関わっていたが、これによって大王一族は豪族層の介入をしりぞけていく。そして、内婚が盛んに行われた結果、女帝が多く出ることになるが、これは男の大王を立てるのが難しい状況になったため(pp.45-)。なぜか同時期の東アジアでも新羅で三人の王女が即位し、唐でも則天武后があらわれる。

 中国の律令が、皇帝権力と貴族勢力とのきびしい緊張関係の上に存在しているのに比べ、日本の律令は、畿内豪族が特異な世襲カリスマを持つ天皇を核として構成した統一体(王朝)全体の法としての性格が強い(p.55)。

 えー、以下、また後で。
............................

 常識がないだけなのかもしれず、知らないことの方が恥ずかしいこともあるかもしれないが、まあ、いいでしょう、ということで、面白いと思ったところを書いていきます。

 810年の薬子の変で、藤原仲成が処刑されてから、1156年の保元の乱まで、天皇の裁可による死刑執行は約350年行われなかった。これは人類史上、唯一の歴史だろうという(p.97)。

 平安貴族は天皇の外戚として影響力を持つことを目指したが、娘を入内させた後、いかにその局を楽しい場所にして天皇に寵愛させるかということで、ホステス役を担ったのが紫式部であり、清少納言などだった(p.102)。また、好色の道も天皇の「天子諸芸能」のひとつだった(p.124)。

 承久の乱における東国の武士の勝利は、悪君の陽成天皇が廃されたという例(9世紀に殿上で殺人を犯して廃される)を知っていた京都の下級貴族出身の大江広元らの主張に支えられていた(pp.121-)。

 足利義満は子の義嗣を後小松天皇の次の天皇に用意していた可能性がある(p.140)。

 江戸時代は850年ぶりに女帝がふたり出現するが、二人とも独身のままだった(p.162)。

 同じ江戸期、後桃園天皇が22歳で没するが、子は生後9ヵ月の女一宮だけだった。そこで、閑院宮典仁親王の六男、祐宮が後桃園天皇の養子として即位したのが光格天皇。はるかに離れた系譜だったので、光格天皇は女一宮と結婚するが、これは前の皇統の娘と結婚して権威を高めるという手法(p.172)。また、光格は自分の権威を高めるために学問に励んだという。この光格の系統が今の天皇家なのだが、なんとなく、似ている感じがするのは自分だけだろうか。

 幕末から明治にかけて生まれてくる皇子は次々に早世し、孝明天皇、明治天皇、大正天皇はいずれも成長した唯一の男子で、しかも全員、側室の子だった。大正天皇も病弱だったが、皇太子時代の22歳、九条節子と結婚。節子は公家の娘には珍しい闊達で健康的な女性で、大正天皇も健康を回復、次々と男子が産まれる。しかし、天皇に即位してからは個人的自由を奪われ、実母である柳原愛子の所にも簡単には行けなくなり、心身の健康を失っていった(pp.203-)。ここらへんは可哀想ですな。大正天皇は地方巡啓でも、人力車夫や繊維工場の少女にも気軽に声をかけ、写真を撮られて新聞記事に載るを喜んだという。また、初の一夫一婦制の生活を終生続けたという。ここらへんで、大正天皇イメージは変わりましたね。

序章 天皇は「王」ではない
1 倭王の時代
2 「王」から「天子・天皇・皇帝」へ
3 唐風の王権への模索と底流
4 東アジアの大変動と古典的な国制・文化
5 武家の台頭とモンゴルの襲来
6 近世の天子と将軍
終章 近代天皇制の諸問題
おわりに 国際的交通と天皇制

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Comments

継体天皇もそうですが
119代・光格天皇も118代・後桃園天皇からは7親等
これって遠縁もいいところでしょう?

面白そう本なので明日買います

P.S.「オシムの言葉」ようやく読みました
  「フルコートの3対3」やってみたくてしょうがない

Posted by: ZICO | February 16, 2006 at 01:01 AM

そうなんですよ、その傍系から即位した光格天皇も前の皇統の娘と結婚して権威を高めるという手法をとります。そして、その光格の系統が今の天皇家なんですね。

Posted by: pata | February 16, 2006 at 08:15 AM

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