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February 24, 2006

『詩への小路』

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『詩への小路』古井由吉、書肆山田

 書肆(しょし)山田という版元は初めて知った。『るしおる』という詩の雑誌を出しているらしい。その『るしおる』の31号から56号まで連載されたものをまとめたのが、この本。時期は1997年6月から2005年3月。

 だいぶ前に、吉本隆明さんは、古井由吉さんの小説について、読者ゼロを目指しているのではないかと書いていたけど、そこからさらに対象を狭くしているというか、ただひたすら書いているというか、自分以外の読者を想定していない寂しさというか厳しさというか、とにかくこの場所にきてしまったという切実さが伝わってくる。

 古井さんは海外詩について書くという中で、その詩そのものも訳している。そうやって訳し、詩との呼吸が整ったところで「思索のもつれを友として、左手にはパイプも忘れず、小径をたどる」。この本は、そうした窃かすぎる作業の報告だ。

 単行本の最後はライナー・マリア・リルケのドゥイノ・エレギーの第一歌の全訳が延々と10回も続く。しかも、それぞれの文頭には、古井さんのつぶやきが書かれる。それが詩の一部なのか、ぼんやり読んでいると判然としなくなる。

 「詩を読んでいる間はともかく、かりにもこれを『散文』へ訳そうとする時に、たちまち感じさせられるのは、私のような流儀の者でも、作家というものはつねに時間の前後関係に沿って文章を組立てているということだ。読んでいる分には不都合とも気がつかないのに、訳するとなると詩文の時制(テンス)の自在さに躓く。つまり事の、人事の、経緯のほうへおのずと感心が向くということだ。たとえば触れ合った男女の、その重ね合わせた箇所に感じられる純粋な持続、とあれば抱擁か、それ以上の進展を思う。ところがその後から、接近の初めの頃の、奇異な、存在と行為の分離が同じ時制の平面において指摘される。しかし原詩の『時』は、さわらぬほうがよい」(p.178)

古井さんは最初に、『ドゥイノの悲歌』と呼ばれる難物を第一歌だけ訳すということは「印欧語の六韻と言い五韻と言い、これを日本語に移すのは、すくなくとも私にとって、不可能であり無意味でもある」(p.171)と書いている。

 無意味であることを知りつつ訳し、それぞれの回にいくばくかの感想とも後悔ともつかない文章を添える。そうした行為はリルケの詩をかりれば、確かに「綺麗に片づいて、表を閉ざされ、なにやら所在ない様子は日曜日に郵便局に似ている」(p244)のかもしれない。

 しかし、その翻訳よりも、古井さんが添えた「清潔に寂れた教会は日曜日の郵便局に似ている」という何もかもそぎ落としてしまったような文章が本当の達成なのだろう。

 それにしても美しい本だ。注文してもなかなか発送されないという。おそらく1000部か1500部しか刷っていないだろう。しかし、古井さんの文章も、本のつくりも、宝石のように美しい。

 連載は1997年6月から2005年3月だというが、その間の社会の出来事は何も直接的には反映されていない。自分に向き合う深さを想う。しかし、『小径』と『小路』といい、『ドゥイノの悲歌』と『ドゥイノ・エレギー』といい、統一などはまったく考えていないような自由さはなんなんだろう。とにかく、古井さんが、そうした場所にたどり着いたことは確かなようだ。

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