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January 14, 2006

『中世の高利貸』

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『中世の高利貸―金も命も』ジャック・ル・ゴッフ (著), 渡辺香根夫 (訳)、叢書・ウニベルシタス

 『中世とは何か』を読んで感動したので、ル・ゴッフ先生の本を取り寄せて読んでいる。『歴史・文化・表象』は講演者のひとりとしての本なので、読んだけど、感想は後回しにして『中世の高利貸』から。

 『中世とは何か』ではもう研究生活も最後だということからか、かなり思い切ったことを言っていて非常にわかりやすいというかクリアカットに語っていた。それは、ユダヤ人たちが担っていた個人向けの高利貸しは取るに足らない存在だけど、キリスト教徒の高利貸は「かなりの額」(p.141)を扱うために聖職者たちは、この新種の高利貸したちを正当化することにつとめることにした、と(個人向けには超々低金利しか用意しないのに、富裕層向けには高い金利を設定する今の銀行みたいに効率的な考えだというか、唯物弁証法の入門時に教えられそうな『量的変化から質的変化への転化の法則』を想いおこさせる)。そして、新種の高利貸したちは労働を実践している価値も認められ、商業の拡大によって東洋とのかけはしとなって新たな財をもたらすという有益性も認められるようになっていった、と。しかも、フランチェスコのように富者も貧者も入れる「第三修道会」をつくる人物もあらわれ、資本の蓄積がモラル面からも補強されることによって12~13世紀のルネッサンスが生まれる、みたいな。

 『中世の高利貸』は、やがては「商人=銀行家」となるキリスト教徒の高利貸が出現しようとした時代に、いかに教会が彼らをうまく取り込んでいったかを、説教集に描かれた高利貸=地獄行きという初期のストレートすぎる考え方から、高利貸も出口はただ一つ天国しかない煉獄(そう、煉獄からは地獄には堕ちない)という概念をつくりあげることによって取り込んでいく過程を分析している(p.96)。

 教会はバルザック的な女房像を持ち出し、パウロがエフェソ5:31で引用する創世記の「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる」を根拠に、教皇に対して自分が苦行するから死んだ高利貸の夫を地獄から救ってほしい、と願い出て聞き入れてもらうという説教をつくりあげ、高利貸が煉獄という回り道は通るが、天国にいけるという道筋を示すようになる(この説教は『中世とは何か』のラストでも引用される)。

 そして「商人=銀行家」となる高利貸たちも、地獄落ちという恐怖にバインドされ、教会に取りこまれる、というわけだ。

 高利貸はアルベルティによって時間の商人として時間の商人と位置づけされ(p.118)、資本家の道を歩み始めるが、金は石女で本来、時間がたっても何も生まないから、利子をとる行為は悪魔の業だという当時の実用"神学"の考え方は、まあ、神学なんていうのは、オソマツなものが多いけど、とりわけプアに感じる(でも、神学論議の5%ぐらいは面白いというか方法論は面白いんだけど)。なんか、こんな論議を読むと『おまけの人生』本川達雄のこんな言葉が思い出された。キリスト教の影響下にある「西洋の哲学には、どうもまともな時間論が無いらしいのです。時間は神様のものであって、われわれが考えてもはじまらないということで、深い考察の対象になってこなかった」(p.177)。確かに時間論はとりわけお粗末なような気がする、と改めて思った。

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