『新約聖書入門』
『新約聖書入門』レジス・ビュネル(著)、加藤隆訳(訳)、文庫クセジュ
9月に出ていたのだが見逃していた。
クセジュにはクルマンによる新訳入門が出ていたが、73年生まれの新鋭、ビュネルが新たに入門書を書いた。では大御所クルマンの入門書と比べて、どこが一番違うのか。それは訳した加藤隆先生があとがきで書いているように、新訳聖書として納められている各文書が、どのような共同体に向けて書かれたものであったのか、ということを意識的に掘り下げている点。
1-2世紀のキリスト教徒は、それまで寄生していたユダヤ人たちのシナゴーグから追い出しをくらい、同時にローマからも迫害を受ける。はたまた、これは加藤先生の師匠でもあるトロクメ先生の最後の本によると、ペトロとパウロによる主導権争いなんかもあったりして、四分五裂状態だったと思う。文書の数からいえば新訳文書の大部分を占める書簡は当時のキリスト教徒の共同体に向けて書かれて(そして、それらは本来その場限りのものであったのだが)、非常に詳しく知っているにせよ、噂で聞いているせよ、とにかく互いに知っていて、手紙の体裁としても挨拶から入っているというのは重要だと思う。
だから、書簡の著者は、宛先の共同体で個別具体的にどんな問題が発生していたのかということを詳しく知っていたし、そうした共同体がどのようなものであったのか、という想定抜きに書簡は語れないと改めて思ったのだけど、初期のキリスト教徒は「家の教会」と呼ばれる有力者の自宅を集会場所にせざるを得なかったわけだけで、もしかしたら共同体というより、もっち小さな「何世帯かの家族間」で発生した問題に対する対処を書いたという風に思った方がいいような文書もあるな、と思った(もちろんローマのような大共同体は別だろうけど)。
ちょっと場違いな引用かもしれないけど「やはり、相手への呼びかけから始まり、時候の挨拶が述べられ、やがておもむろに本題に入っていく、といったような全体のつながりを見なければ『手紙を読んだ』とは言えない」し(ウィーラン『キャパその死』文春文庫の訳者、沢木耕太郎さんによる訳注、p.255)。
パウロは何か問題が生じると「前方への避難」(p.54)という戦略をとるという書き方や、「黙示録は、不安の文書ではなく、迫害を受けている共同体に希望を与えようとする文書である」(p.112)、あるいは写本に関する「普及のための機械的方法が存在しない時代には、テキストの再生産は、写本生の能力ないし無知に依存していた」(p.140)のはうまい表現だな、と思った。
何回も書くけど、西洋哲学をやろうというような人のベースには聖書に関する知識が絶対に必要。西洋哲学というのは新訳、旧訳への註だともいえるわけだし。そして、ここを読んでいただいている方にそんな方がいらっしゃれば、新訳への入門書として、なにより抹香臭くないところがいいこの本を強くお勧めしておきます。記憶している聖書中のエピソードが、どこの文書書かれているかのガイドが巻末にまとめられているけど、こういうのも、初学者というかチラッと新訳に関して勉強してみようか、なんていう方には便利かも。とにかく、徹底的に世俗的なところが素晴らしい。
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