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October 27, 2005

『吉田茂』

yoshida_shigeru

『吉田茂』原彬久、岩波新書

 『岸信介―権勢の政治家』、『岸信介証言録』の原彬久さんによる吉田茂論。新刊。それなりに興味深くは読めたが、自身で長時間インタビューを行った岸信介論ほどの迫力は感じられない。まあ、致し方ないが。それでも、読めばさすがに情報が整理され、敗戦直後の日本の混乱ぶりがよくわかる。ということで、例によって箇条書きで。

1)吉田茂には実父・竹内綱(土佐藩重臣伊賀家の家臣、朝鮮に建設した京仁鉄道のオーナー社長、初代国会議員)、養父・吉田健三(福井藩脱藩・イギリス滞在、アヘン戦争を引き起こしたジャーディン・マディソン商会横浜支店番頭)、岳父・牧野伸顕(大久保利通次男、パリ講和会議次席全権、娘・雪子を外務省の後輩である吉田茂に嫁がせる)という三人の父に恵まれた。特に、養父・吉田健三は40歳になるかならないかのうちに早世し、数十億円の遺産を茂に遺す。これを茂は政治の世界で蕩尽しつくした。

2)外務省に入省後、外交官として初めて命じられた任地は日露戦争後まもない満州の地。

3)第一次大戦後のパリ講和会議には岳父・牧野伸顕に随行。この時には、松岡洋右、芦田均、重光葵、有田八郎らの若手外交官と、西園寺のカバン持ちとして近衛文麿も加わった。アメリカでは大統領に随行してダレスも参加。第二次大戦後の対日講和、安保条約交渉で吉田茂と渡り合うダレスは共にパリ講和会議に姿をあらわしていた。

3)パリ講和会議は中国問題をある程度解決したかにみえたが、1924年の国共合作、北支・満蒙の地における軍閥の私闘が続く。吉田は中国統一のために積極政策に打って出るべし、という主張で段祺瑞を推すが、日本の代理人と見られた段祺瑞は5.30運動を弾圧したことなどにより、クーデターで失脚。奉天総領事であった吉田は満蒙分離に動く。それは、ナショナリズムの高まりを背景とした蒋介石の国民党による全国統一をやむを得ぬ現実として受け止めると同時に東三省(奉天、吉林、黒竜江=満州)を分離するという立場だが、戦略的立場から張作霖に東三省の支配を委ねるという首相・田中義一の立場と異なり、吉田は張作霖の排除を狙う。そして満鉄線横断の京奉線を軍事的に利用していた張作霖に対して、横断阻止を宣言。しかし、なんと関東軍から「手荒すぎる」「時期尚早」との批判が出され、更迭される。吉田は対中武断派だった(pp.56-)。

4)後に張作霖を関東軍は爆死させるが、吉田と関東軍の違いは、吉田が「支那側のご機嫌取りは禁物」「事大主義である支那人の排日感情を恐れてはならない」と中国に対する強権支配論を振りかざしながらも、それは英米の了解を前提としたものであったこと。吉田は戦後もGHQに対して治安維持法の存続を申し入れ、安保騒動に時には鎮圧を求めているが、こうした治安維持を求める弾圧的手法は、基本的には変わらない。ただし、外交官として「英米の了解」だけは必要だ、という意識だけが違っていた。戦前、対英米戦阻止に動いたのも、これが理由。

5)事務次官となった吉田が取り組んだ最初の仕事は1930年のロンドン会議。浜口内閣は補助艦総トン数「対米7割」を主張したが、69.75%での妥協となった。この会議の結果に不満を持つ軍部・右翼はテロに走り、条約批准後一ヶ月後には浜口首相が狙撃され、31年には軍部独裁を目指した10月事件と満州事変が発生。32年には血盟団による前蔵相井上準之助暗殺と犬養毅首相を暗殺した5.15事件、と続く。吉田のロンドン会議へのスタンスは「対米妥協」「条約推進」。こうした姿勢は軍部強硬派からにらまれ、終戦直前の逮捕につながる。

 また、2.26事件で吹き飛んだ岡田内閣後に成立した広田内閣で吉田は外相就任を要請されているが、軍部から拒否されている。これが広田弘毅がA級戦犯として処刑され、吉田がワンマン首相として戦後を生き延びた運命の分かれ道だった。

6)以前、『岸信介証言録』の関係で紹介した近衛上奏だが、これに関連して逮捕されたのが実は吉田茂。近衛上奏は「軍部内一味の革新運動と新官僚の運動はマルクス主義者あると」いう認識だが、吉田も「戦時中にも軍部は大分、左傾化していた。満州国の如きは右翼の連中がやったことではなくて、左翼の思想で作られたのである」(大磯随想)としている。軍部は最後はソ連と手を握ることも考えていたようだ(p.96)。これらは最近読んだ本で得られた新しい知見を補強してくれる材料だと思う。

7)最近、TV評論家などによる「日本はハル・ノートで追いつめられて仕方なく戦争に突入していった」という安直な論調があるが、ハル・ノートは「特に左の上の方にテンタティブ(試案)と明記し、また『ベイシス・オブ・ネゴシエーション(交渉の基礎)とあり、ディフィニティブ(決定的)なのものではない』と記されて」おり、つまり「実際の腹の中はともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずである」(『思い出す侭』)と吉田は回想している。

 結局 「日本人はミリタリー(軍人としての)勇気があるが、シヴィル(市民)としての勇気に乏しい」(『日本外交の過誤』ヘンリー・デニソン)という明治以来の姿勢のまま突っ走ってしまったために(p.103)、「ディプロマティックセンス(外交感覚)のない国民は必ず凋落」(『日本を決定した百年』)してしまったということなのだと思う(p.74)。

8)吉田は総理になっても首相官邸には住まず、白金の朝香宮邸を月8万円の家賃で借りていた。朝香宮邸といえば日本的なアール・デコ建築の代表格で、現在は東京都庭園美術館となっている。そんなところに一度でも住んでみたいと思うのだが、当時、東京都知事の給与が1万円の時代に家賃は月8万円である。現在、石原都知事の給与は一時金も含めて総額年2800万円だと思うので、ざっくり月額230万円だとすると、単純になおすとなんと月1800万円ぐらいを朝香宮に支払っていたわけだ。さすが養父から巨額の遺産を遺してもらっただけのことはある。しかも、朝香宮から借りたのは、昭和天皇から直接、依頼があったからだという。宮家の経済的窮状にも「臣茂」はなにかと頼りにされていたわけだ(pp.130-131)。

9)第一次吉田内閣の農相は農林省農政局長だった和田博雄を抜擢する。和田は後の左派社会党書記長で、戦時下においては「国家統制経済の中枢機構すなわち企画院に籍を置き、『アカ』のレッテルを貼られていわゆる企画院事件に連座」した人物だ。本題からは外れるが、マルキストの巣窟と言われた満鉄調査部といい、企画院といい、改めて岸信介はとんでもない包容力を持って使っていったのだと思う。

10)吉田がマッカーサーに従順だったのは、鈴木貫太郎の「負けっぷりをよくせよ」という教えに共鳴したからだという(p.133)。それとともに、日本国民がマッカーサー宛に出した手紙はざっと50万通あるといわれており、しかもそのほとんどが追従と賛美のラブレターであったという(pp.231-232)。個人的にこれだけ「負けっぷり」がよかったということは素晴らしいことだったと思うけど、その裏腹で『拝啓マッカーサー元帥様』大月書店という本までまとめられていることには、ちょっとね、という気もする。まあ、ぼくも含めて、日本人的だな、とは思いつつ。

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