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October 21, 2005

清和会研究『岸信介の回想』

『岸信介の回想』岸信介、矢次一夫、伊藤隆、文藝春秋

 ぼくが知らなかっただけで岸信介は、立派な自伝を残しているし、研究者のインタビューにもキッチリ応えて大部の回想録も残している。

 この『岸信介の回想』は長い間の大物私設秘書というか"逆コース"の黒幕の一人だった矢次一夫も交えて、昭和史に貴重な証言を残すとともに、「獄中何等世事ニ関セズ、独座静思読書ニ親シムコトヲ得タルハ、蓋シ此ノ変局ニ当タリ、寧ロ感謝ニ値スルモノアリ。固ヨリ美食ナシト雖モ以テ飢ユルノ憂ナク、暖房ナシト雖モ以テ凍ユルノ虞レナシ。陋室ナリト雖モ以テ膝ヲ容ルルニ足リ、起臥不自由ナリト雖モ以テ生ヲ安ンズニ足ル」で始まり「今晩零時半から東條氏以下の絞首刑が執行せられたといふ情報が伝へられる。まだ真偽は判らぬけれどもどうもあったらしい気配である」で終わる巣鴨プリズンにA級戦犯容疑で収監されていた当時の日記も収録している。

 それにしても昭和23年12月23日に東條英樹以下のA級戦犯が絞首刑に処せられた翌日、出獄したということは、何回考えてもすごい。もし、岸信介の映画を撮るならば、東條らの死刑のイメージとともに、出獄という出だしは印象的なオープニングになるだろう。

 これも箇条書きで。

1)鉄鋼不足の中、統制経済で最も苦心したのは、航空機の生産で、それも「三菱のほうは海軍が有力で中島のわうが陸軍」という構図だったという(p.65)。

2)安部晋太郎の実父、安部寛は"今松陰"と呼ばれていた人物で、三木武夫元首相、赤城宗徳元防衛庁長官の親分だった。三木は総理になった報告を墓前で行ったほど。ただ「結核で五十ぐらいで亡くなった」(p.71)。安部晋太郎も総理を目前にして死んでいるし、安部晋三幹事長代理も、若いとはいっても、いつ死ぬかわからない、という気持ちの方が強いのかもしれない。その点、親父である赳夫が70歳をすぎて総理大臣となり、その後も長命した福田康夫前官房長官の方が長い視線で考えているのかもしれない。

3)戦犯容疑での取り調べで、アメリカ側の検事が驚いたのは日本には首都ワシントンの占領計画などなかったことだという。「ハワイまではとる決心をしたけど、それから先のアメリカ上陸作戦は陸海軍とも考えていなかった」(p.89)ことはアメリカ側からすれば"奇妙な戦争"に映ったのかもしれない。『1941』は西海岸の人たちが日本軍の上陸に過敏になるという映画だったが、それとオーストラリアの人たちが日本軍の上陸を死ぬほど恐れて降伏してしまおうかとまで議会で議論されていたことなどを考えると(『マッカーサー回顧録』)、アングロサクソンというのは、意外と自国内での戦闘というのは恐れているのかもしれない、と考えた。

4)ミズーリ号で敗戦の調印を行った重光葵は戦後、巣鴨プリズンに収監、保釈された後は、岸と同じように政治家の道を歩むが、理解力のなさ、もののわからなさに対する不満がしばし側近からもこぼされたという(p.116)。岸も「よく言うんだけど、重光君がステッキをつきながら壇上にのぼって、おもむろに、諸君!というところまでは満点だが、そのあとは落第だ」と語っている(p.147)。こういうタイプ、官僚に少なくない。自分がアタマ良いと思って、人の話を聞かないタイプ。キャリアの途中まではすごくキレている印象があるけど、その後、情報が入ってこなくなるから、だんだんズレていき、総論では結構語っていても、各論に入ると支離滅裂になるから。最後は老害になり、バカにされ忘れられていく。他山の石にしなくては。

5)岸信介が政界復帰後4年ちょっとで首相の座に上り詰められた最初の大きなキッカケは、1954年の吉田退陣の後、鳩山選挙管理内閣の元、民主党の幹事長として55年2月の総選挙で大勝利を収めたことがあげられる。この時は「鳩山ブーム」がおこったという。もちろん、この直後も後見人ともいうべき三木武吉の衆議院議長選出の失敗、憲法調査会法案での苦渋などはあったが、この年、緒方竹虎党首の自由党との保守合同を完成させる。保守合同は民主党の岸、三木と自由党の大野伴睦、石井光次郎の4人で話し合って煮詰めていったというが、「会合といっても、何もしないで、ただバカ話ばかり」していたという(p.126)。日本の組織というのは、こういうところがあるよな、と改めて思う。これは感情問題でこじれると傷を負う恐れがあることを三木武吉が感じて、会談だけやっているというアドバルーンをあげて様子見をしていたということ。

6)首相となっての東南アジア歴訪中、シアヌーク殿下の父、キングと会談した際「どうしても日本人の血をカンボジアに入れたい。戦時中は日本軍の軍紀が極めて厳しかったせいか、いっこう日本人の血がここに残らなかった(笑)。だから今度改めて土地を提供するから、日本人に移民してもらいたい。ただ細君を連れたのではだめで、一人身でないといけない、と王様が言ったんだ(笑)」「その話を真剣に切り出されたのにはびっくりした」という(p.172)。いやはや、なんとも…。

7)1959年(昭和34年)、北朝鮮系の住民が日本から北へ帰りたいということで新潟の宿舎に集団で泊まっていたときがあったが、その「宿舎を、韓国大使館のKCIAが爆破しようという計画が起こったんだよ。幸い新聞に出ない未発の段階で、県警が事前に情報をキャッチして処置したんだ」「この件に関係した六、七人のKCIAの連中を送り返し、大使館は陳謝するという処置で済んだ」(pp224-225)という。

8)日共の宮本顕治は官邸に侵入して、岸をつかまえて辞職を迫り、著名・捺印をさせるべきだったという党内論争を押さえたという(p.244)。

9)椎名悦三郎は岸信介が商工大臣に就任した際、事務次官に置いただけでなく、その前も満州に露払い役として送るなど、岸の第一の子分だった。当然、二代目だと思っていたが、そこへ福田赳夫が現れて、岸派を継承したものだから反福田に転じていく。田中角栄の辞任後、三木武夫を指名した椎名裁定も、こうしたところから影響された部分というのはあるんじゃないかと思った。ちなみに椎名さんの家は実家の近くにあって、それなりに立派だとは思ったけど庭なんか全然ない、東京女学館の体育館の陽の当たらない裏みたいなとこで、とても大政治家のものとは思えなかった(でも、なかなか素敵なコビジェライクな平屋建てだったと記憶している。あの家は今、どうなっているんだろう)。

10)ピルが日本でなかなか解禁にならなかったのは医師会からの圧力。「私は想像したくないけれど、今の制度だと産婦人科医の一番大きな収入は妊娠中絶の手術だというからね」(p.274)。まあ、いろんなところに目を配ってはいるわけだ。

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