« 『イーリアス日記』 | Main | FC東京と『監督』 »

September 26, 2005

清和会研究『岸信介回顧録』

kishi_kaikoroku

『岸信介回顧録―保守合同と安保改定』岸信介、広済堂出版

 初版は1983年1月。岸信介は、この年の10月には有罪判決の出た田中角栄を自宅に訪問し、議員辞職を勧告するなど、まだまだ生臭くやっていた。どこの本だか忘れてしまったが(田中角栄の早坂秘書の本かな…)、角栄が「ちょっと様子を見に行け」と自宅を訪問させると、まだまだローストビーフなんかを喰っていて、若いお妾さんなんかもいて、そちらの方も現役だなんてことに驚くという場面もあったかと思うが、とにかく妖怪という感じがする政治家だった。やや近い雰囲気を持つのは中曽根康弘だと思うが、怖さは段違いに岸信介だと思う。

 そんな岸信介の回顧録を読んだが、なにせ大判で643pもある。最初はウンザリした。しかし、面白かった。一気に読めた。様々な情報は得られたが、小泉政権のグランドファーザーとして考えたときに、何を予想できるか、ということに絞って感想を書いてみたいと思う。

[東条と対峙して内閣辞職に追い込んだが…岸信介の戦争責任]

 非常に大部な本なので、細かく引用しながら感想を書くのは避けたいのだが、「保守合同と安保改定」というサブタイトルで明らかなように、いきなりA級戦犯として逮捕されながら巣鴨を出て、政治を志すというところから始まる。

 最初のあたりで面白かったのは、東条英機から国務大臣を罷免される場面。まあ、相手は死んでしまっているし、当時の戦争遂行者たちは、すべての責任を東条におっかぶせて逃げまくったということをさしおいても、面白いやりとりがあった。それは1943年5月、サイパンでの敗戦が濃厚になった場面。岸信介は東条首相に対して、サイパンが陥落したら米軍が日本国内を爆撃する。そうなると軍需産業の責任者として責任が持てない。海軍もサイパンを最終防衛戦にしており、台湾や沖縄を想定していない、として批判。結局、翌年7月にサイパン島守備隊、3万人が全滅し、東条内閣は総辞職することになる。実際、サイパン陥落後に東条が内閣改造で乗り切ろうとした時、岸は辞表を出すのを拒否して、内閣総辞職に追い込んでいる。

 一応、やることはやったかに見えるが、やはり納得はできない。まったく関係ないが、先週、お亡くなりになった中内功さんに関して佐野眞一さんが『カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」』に触れながら、眠ったら仲間に喰われるかもしれないというフィリピン戦線での異常な体験(所属した大石正義中佐率いる陸軍部隊はフィリピン・ルソン島で玉砕、中内さんは重症を負うが奇跡的に生還)が急成長の後に破綻した人生を歩ませたとして、「中内さんは精神的な傷痍軍人だった」とテレビでメコントしていた言葉が印象的だ。

 中内さんはまだ帰れたからいいが、やはり岸信介には、戦争遂行者としての責任はどうなんだ、という批判はつきまとうと思う。いくら「私は太平洋戦争が開始された時の国務大臣として、戦争の経過ならびに結果については重大な責任を感じている。多数の人命、財産を失い、日本国土を荒廃させたことは、国民に対して申し訳ないとしか言いようがない。ただ、その責任のとり方として、勝者である占領軍が、一方的に断罪するやり方には心理的に反発を感じ、法理論としても納得できなかった」(p.17)と書いていても。

 ちなみに、岸信介の兄である佐藤市郎は海軍始まって以来の秀才といわれて中将まで上りつめている。もちろん、弟、佐藤栄作は総理大臣だ。

 うーん、やっぱり、岸信介のことについて書くと、憎悪を禁じ得ない。以降はあっさりいく。

[保守合同と勝負弱い岸-福田ライン]

 保守合同についての役割について、ざっくり語れば、吉田茂が鳩山一郎から一時預かった政権を返さなかったことに起因する保守分裂の状態を、鳩山寄りの立場で吉田を追い込んで保守合同を実現し、自民党の初代幹事長に就任したということだろう(1946年4月の衆議院総選挙で鳩山総裁の日本自由党が第一党となるが組閣を目前に公職を追放され、それを吉田が引き継ぎ、追放解除後も総理大臣をつとめた)。

 吉田自由党を固めるのは池田勇人、弟の佐藤栄作。それらの下には田中角栄、まだまだ三下ながら宮澤喜一などもいた。

 岸信介は自民党から除名され(福田赳夫ら14名が追随する)、鳩山、三木武吉、河野一郎などとともに日本民主党を結成。ワンマンとの批判が高まった吉田は退陣を勧告され、自由党総裁は緒方竹虎となる。そして岸は鳩山内閣を成立させ、保守合同も実現する。

 ここらあたりで、岸-福田ラインの共通項がひとつみえる。それは勝負に弱いこと。鳩山首相の後の自民党総裁選挙を、岸は石橋湛山と石井光次郎の三人で争い、第一回投票では一位を占めるが、二位三位連合の前に決選投票で負けてしまう。総裁公選で大平正芳に負けてしまう福田にそっくりだ。そして、敗北の後も、わりと淡々としている点も岸-福田は似ている。ここいらあたりは、失意の時こそ超然としているべき、というエリートの自負があったのだろうか。

 また、政権を担当するかもしれないと思われたのに、意外と短命に終わったのも岸-福田に共通している。そして、この本を読んで、小泉首相が岸-福田の失敗から学んだとすれば、まさにこのことだと思った。

 アイゼンハワーの来日で安保条約改定を演出しようとした岸信介は、その頃には、まだ反対運動も盛り上がっていなかった2月に、解散をしたいと川島幹事長に相談する。結局、幹事長に反対されて解散はあきらめるが「今振り返ってみると、あのとき思い切って解散すべきだった」「解散をしておけば、これらもろもろのアク抜きになり、新条約はさつぱりとした形で批准されたであろう。冒頭解散の機会を逃したことは残念だった」(pp534-535)と回想している。

[小泉首相は岸-福田の失敗から学んだ?]

 この「冒頭解散の機会を逃したことは残念だった」という言葉は、ひょっとして福田赳夫や岸信介から直接、何回も小泉首相が聞かされていた言葉だったのではないだろうか。そうでなければ、今回の郵政民営化で、あれほど躊躇なく解散に踏み切れなかったのではないか。

 いろいろ書きたいこともあるが、戦後60年の保守政権を振り返ってみても、結局、日本は保守党内部ではあり、さらには擬似的かもしれないが、政権交代を行ってきた、ということを改めて思う。

 それは大局からみると、吉田茂から続く宏池会+田中派vs鳩山一郎から続く岸-福田ラインの戦いではなかったか。そして、保守政権が最も安定したのが、吉田自由党からの流れではあるが、岸の実弟である佐藤栄作首相の時代だったということも、この図式があてはまるならば納得できる。歴史家ランケは、「一切の古代史は、いわば一つの湖に注ぐ流れとなってローマ史のなかに注ぎ、近世史の全体はふたたびローマ史のなかから流れ出た」と述べているが、吉田学校の流れと岸の流れが佐藤首相という湖に注ぎ、そこから田中角栄と福田赳夫は力をつけ、後継総裁を争ったのだから。

 このほか、小泉首相のグランドファーザーといえる点としては、派閥解消を訴え続けたこともあげられるだろう。また、本人は官僚出身(戦前は革新官僚と呼ばれて商工大臣などを努めたが、戦争遂行をめぐって東条英機と対立、国務大臣を辞任する)ではあったが、政治家としては党人派と行動を共にした。田中角栄などが官僚を重用したのとは明らかに作風が異なる気がする。

|

« 『イーリアス日記』 | Main | FC東京と『監督』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23829/6120419

Listed below are links to weblogs that reference 清和会研究『岸信介回顧録』:

« 『イーリアス日記』 | Main | FC東京と『監督』 »