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September 24, 2005

清和会研究『回顧九十年』福田赳夫#2

[福田赳夫の官僚観]

英国から帰国した福田赳夫は地方税務署長を経て、34年に陸軍省担当主計官となり、陸軍関係の予算について一切合切を処理することになる。入省5年目としてかなりの大役だ。そして、猛暑のなか、仮想敵国だったソ連についても勉強する。

 当時、陸軍は真崎三郎大将が率いる積極的な「皇道派」と、永田鉄山少将を統領とする慎重な「統制派」に分かれていた。しかし、翌35年、永田少将は軍務局の局長室で斬殺される。殺したのは皇道派の相沢中佐。これによって、対ソ強硬論が高まり予算要求も大きくなる。それを抑えるために高橋是清大蔵大臣は36時間をかけて閣議で説得するが、3ヶ月後の2.26事件につながる。

 結局、37年度予算は、高橋是清大臣が死守しようとした健全財政路線が破棄され、国家予算に占める軍事比率は69.0%にまで高まる(36年度は47.2%)。

37年7月には廬溝橋事件が発生。いったんは不拡大の方針がとられるが、12月には南京占領、38年5月には徐州大会戦へと進む。福田は主計官として中国の軍事施設を視察、便衣隊(ゲリラ)に襲撃されたりもする。そして、落雷で機密資料を失ったりもする。機密文書をソ連に渡していないかということについて憲兵から尋問を受けるが、こうした経験からも、40年6月の当時においてさえ「陸軍が仮想敵国として考えていた相手は明らかにソ連であり、米国ではなかった」(p.45)。

 その後、仏印への出張視察を経て、汪兆銘の南京政府に財政顧問として派遣される。ここで、新貨幣「儲備券」の発行などもてがける。

 43年、中国から帰国して大蔵省文書課長に就任。当時、インフレが抑えられたことに関して、42年頃には、国民所得の60%ぐらいが貯蓄にまわっていたという。「世界に類を見ないこの貯蓄率の高さは、インフレ防止にとどまらず、アメリカのような大国を相手に4年間も戦争ができた原動力であった」(p.57)。もちろん、この貯蓄は敗戦によってゼロとなるが…。

 敗戦後、米軍は軍票を使うといってきたが、津島蔵相が抵抗、使用を食い止めたという。しかし、国内ではインフレと食糧の隠匿が進行。これを一挙に解決するため、46年2月に新円の発行に踏切る。それより前、食糧隠匿に関して、自治、通産、農水、運輸の4省が集まって対策を行ったが「効果があがる対策は到底考えられない、結局は大蔵省が事態の収拾を引き受けることになる」(p.71)というのは、いかにも最高級の大蔵官僚の感想だと思った。

 その後、銀行局長、主計局長に就任するが、昭和電工事件に巻き込まれる。結局、おとがめナシとはなるが、1950年に退官。52年8月に無所属で立候補、当選する。掲げたふたつの旗は「日本経済の復興」と「政界の刷新」だった。当時、大蔵省出身者の議員は参議院を入れて24名いたが、無所属は福田だけだったという。その後、49年には岸信介と出会う。政治理念で共鳴したのは「小選挙区制で二大政党が交代して政権を担当しよういう点」(p.104)。

 福田は自由党に入党するが、岸が党内の権力争いの中で吉田茂総理総裁から除名を受ける中、行動をともにする。

 保守合同の後、岸が政権を獲り、福田は自民党の政調会長、幹事長、農林大臣に就任する。

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