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August 11, 2005

『津軽』による津軽 北東北の旅#3

shayoukan

太宰治を最初に読んだのは小学校5年生だったと思う。もちろん感動した。『斜陽』『人間失格』しびれましたね。中学になっても好きな作家で『東京八景』『富嶽百景』など生活や精神が安定していた頃の文章はとろけさせられました。『トカトントン』戦後の心象風景をこれほど見事に描いた作品はないでしょう。『黄金風景』泣けます。

 もちろん『津軽』も好き。頁稼ぎなのか、様々な資料からの抜き書きで枚数を増やしている前半部分は、早よ書け!と版元からせかされて仕方なくやったことなのか知りませんが、それでも、その資料自体が当時はあまり知られていなかったわけだし、十分、興味深い。親友N君たちとの邂逅の場面。もちろん大酒となって繰り広げられる様子も「ああ、こういったのが津軽の人たちなのかな」と得心がいくように描かれている。金木の実家に帰って改めて感じる兄との不仲。そして、自分を育ててくた子守の「たけ」に30年ぶりに会いにいく場面は何回読んでも泣けます。

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.........Quote...........
 私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。さうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はつと思つた。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけゐない、たけゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない。

(中略)

「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。

(中略)

「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫《くら》の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺《むがしこ》語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛《め》ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。

(新潮文庫 pp.189-211)
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 ということで、夏休みを利用した東北旅行の中日にあたる8/8の月曜日、前日よくしてくれた個人タクシーの小川さんのクルマをチャーターして、『津軽』をまわってみることにした。

 当日は雨模様。陸奥湾も霞んで、対岸に見えるはずの下北半島の姿はようとして確認できない。それでも、北上するにつれ曇りから薄曇り、晴れへと天候が良くなっていった。この日は浅虫温泉を出て、青森から松前街道を北上し、竜飛岬から小泊、十三湊、金木、五所川原、弘前と巡って青森に帰るというルートを考えた。列車ではとても一日では回れないし、カーナビ付きのレンタカーを借りても、竜飛岬あたりは大変だと思う。ということで、太宰治が五月から六月にかけて巡った津軽半島を一日で駆け抜けてみようと思いたったわけだ。

 このルートと太宰のルートとの違いは竜飛岬。太宰は津軽半島の東海岸を北上し、徒歩で竜飛岬にたどり着くが、そこから「たけ」のいる西海岸に抜ける道はなく、いったん引き返す。いまやありがたいことに、西に抜ける道路が整備されている。とはいっても、その道は高い山をグルグルと登っておりるロング&ワインディングロード。日本海側からは絶えず水分を含んだ風が吹き付けるので、頂上付近は霧に覆われている。もちろん冬期は封鎖される。

 ちなみに太宰が歩いた昭和19年当時、竜飛はこんなところだったらしい。

「もう少しだ。私たちは腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るやうにして竜飛に向つて突進した。路がいよいよ狭くなつたと思つてゐるうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかつた」(p.117)

 とにかく松前街道をひた走りに走り、太宰がN君と蟹を食べた蟹田を過ぎ、外ケ浜をさらに北上する。途中、高野崎で最初のピットイン。キャンプ場になっているが、素晴らしい眺め。天気の良い日に岬の断崖の上に立つと、前には北海道最南端の白神岬、右手には本州最北端の大間崎、左手には津軽半島最北端の龍飛崎が見えるそうだ。なんと三方に岬が見える岬なのだ。海岸まで下りていく階段が整備されているので下りると、奇岩が迎えてくれる。海鳥は近づいても逃げないし、透明な海水には小魚が泳ぐ。振り向けば断崖絶壁。こんないいところ、しかもほとんど人もいないところってあまりないでしょ。なにせキャンプ客ぐらいしか午前中は来ることができない。あまりにもいい風景だったので、記念に手を海にひたす。

 再び車中のヒトとなって、次に目指すのは三厩。JR津軽線の終点だ。そして、太宰も訪れた義経寺が建っている。

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 石段を登り切つた小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立つてゐる。堂の扉には、笹竜胆《ささりんだう》の源家の紋が附いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持で、
「これか。」と、また言つた。
「これだ。」N君は間抜けた声で答へた。
 むかし源義経、高館をのがれ蝦夷へ渡らんと此所迄来り給ひしに、渡るべき順風なかりしかば数日逗留し、あまりにたへかねて、所持の観音の像を海底の岩の上に置て順風を祈りしに、忽ち風かはり恙なく松前の地に渡り給ひぬ。其像今に此所の寺にありて義経の風祈りの観音といふ。
 れいの「東遊記」で紹介せられてゐるのは、この寺である。
 私たちは無言で石段を降りた。
「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。」N君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、
「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋《みまや》と称するなりとぞ。」
 私たちはその巨石の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのやうな伝説は、奇妙に恥づかしいものである。(pp.112-113)

.........End of Quote...........
 
 小川さんも義経寺に来たのは初めてだという。一緒に登りませんか、と誘うが「いやいや、とても登れません」というので、交通安全のお守りをおみやげにした。昨日から、本当に世話になりっぱなしだから。

 さて、その義経寺だが、新しいお堂が建設中だ。大河ドラマが終わる頃には完成するだろう。にしても、青森はキリストが来たという戸来(へらい)村があったり、始皇帝から不老不死の薬を見つけて来いといわれた徐福が上陸したということで権現岬の港に公園をつくってしまったりと、妙なことばかりやる。

 ということで、ここら辺からは北上というより、西進。三厩から先は国道339号になり、やがて日本で唯ひとつの"階段国道"となって尽きるまでクルマを走らせる。いよいよ道幅も狭くなり、対向車は今別を過ぎた当たりからほとんどない。小さな漁港に入ると、おばあちゃんが国道に背中をもたせて昼寝していたり、海藻を干していたりする。

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 竜飛岬。立ちました。当日はほぼ無風。風のない竜飛岬というのも妙だ。太宰は「私は帽子を幾度も吹き飛ばされさうになつて、その度毎に、帽子の鍔をぐつと下にひつぱり、たうとうスフの帽子の鍔の附根が、びりりと破れてしまつた」というのに。ウインドパークにある風力発電の風車もピクリともうごいていない。

 驚いたのは津軽海峡と日本海の海の色の違い。鈍色の津軽海峡に対して、どこまでも透明なブルーの日本海。光の加減もあるのだろうが、あまりにも違う。

 龍飛漁港には道の行き止まりに『津軽』の文学碑もあるというが、まあ、いいでしょうと頂上でFC東京のマフラーを広げて記念撮影しただけで出発。グルグルと山を登り、グルグルと下りる。天気がよければさぞ絶景が広がることだろう。さすが国定公園。つか、国立公園にすべきでしょ。

 小泊の「道の駅」でピットイン。太宰とたけの銅像も近くにあるというが、ここも、まあ、いいでしょう、ということで、先を急ぐ。ちょっと十三湊には長くとどまる予定だからだ。

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 太宰は「人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬといふやうな感じだ」と書いているが、司馬遼太郎さんは、中世(鎌倉から戦国時代)においては安藤氏の日本海を内海にみたてたような貿易によって、この地が独自の繁栄をみせていたという日本史の成果を踏まえて「この砂地の下に数世紀のあいだに何万の人々がそこで生死した都市が存在していたのである」と『北のまほろば』で書いている。もちろん愛する網野善彦先生も、十三湊や上ノ国勝山館から中国製の磁器や宋銭が莫大に出土していることに言及している(講談社学術文庫版の『海と列島の中世』の表紙は十三湊の航空写真だ)。

 ということで十三湊というか地元の人たちはみな十三湖と呼ぶが、到着してまず訪ねたのが「市浦歴史民俗資料館」。ここはマジでお勧め。中国製の青磁器、白磁器、青白磁、高麗青磁の破片、歴代の宋銭などコンパクトにまとめられた展示物からは、安藤氏の繁栄が伺える。宋銭を中心とした貨幣経済が環日本海にあったんだな、ということが本当によくわかる。静かな感動を覚えて再び橋を渡って中島から対岸のクルマへ。ちなみに、この施設、もちろん冬期は閉館です(12/31~3/31)。

 この時点でお昼をかなり過ぎていたが、もちろん向かうのは元祖しじみラーメンの「和歌山」。普通のは700円だが、おおぶりのシジミを使った特製は1000円。恥ずかしながら1000円のをいただく。連日の飲酒で酷使している肝臓をいたわりたいのだ。シジミは身を食べないと肝臓に効かないということで、せっせと身をいただく。普通の塩ラーメンをもっと薄味にしつつ、シジミの出汁が効いている素晴らしいスープ。こんなのは東京では絶対に喰えない。つか喰ったら3000円ぐらいとられるのではないか。

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 ありがたい、ありがたいという気分になって、いざ金木へ。太宰の生まれた地である。途中の農道がみな立派。つか立派すぎ。申し訳ないが、もっとうら寂れたところじゃないかと思っていたが(『津軽』では「どこやら都会ふうにちよつと気取つた町である」と書いているのは承知にしても)、やはり、街であって村ではないと思った。斜陽館という名前にはちょっとなぁ、という気分もあるが、まあ、気にせず500円!の入館料を払って入る。さすがに300戸の小作を雇っていた家だ。広い。『津軽』で兄と気まずく蟹を食べた部屋も見ることができた。太宰の来ていた二重回しのマントも飾られていたが、やはり栄養状態がよかったのだろう、当時としては、長身だ。高橋源一郎さんのように、太宰のねぶたの前で同じようなポーズを撮って友人たちに送る。

 しかし、太宰治が地元にあまり愛されていないように感じるのは、やはり300戸の小作からの「米俵のぎつしり積まれたひろい米蔵」を持っていたからなのかな、と思う。

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 などつつ詰まらぬ事を考えつつダルマストーブで有名な津軽鉄道を横目で見ながら五所川原へ。ここも、申し訳ないが本当の田舎だと思っていた(『津軽』では「農村の匂ひは無く、都会特有の、あの孤独の戦慄がこれくらゐの小さい町にも既に幽かに忍びいつてゐる模様である。大袈裟な譬喩でわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京に例をとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といつたやうなところでもあらうか」と書いているが)。しかし、ひと目で明るい雰囲気のする街だとわかる。

 実は朝、「今日、どうされるんですか?」と聞かれたので、タクシーをチャーターして津軽半島を回ると答えると「今日は五所川原の立佞武多(たちねぷた)の最終日なんで、行ってもらったらいいですよ」といわれていた。夜までには帰って来たかったので(というか、そこまで拘束できないので)「たちねぷたが展示されているところには寄ります」と言って出てきたのたが、肝心のたちねぷたは、夜からの"出陣"に備えて内部の電気を落としていたのは残念。それにしても、デカイ。

 ということで弘前へ。いつか桜の季節には一度、来たいところだ。その時は太宰のように大鰐温泉にでも泊まろう。弘前城を一回りしてきたが、これが桜の季節になったら、凄いだろうな、と想像して歩いた。最後は、太宰も通ったという弘前・土手町の喫茶店「万茶ン(まんちゃん)」に向かうが、なんと休業…。なんかこんなのが多いのだが、「また来いよ」ということだろうと思い、一路、青森へ。ラ・プラス青森の前で降ろしてもらい「次も頼みますから」と別れる。
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 シャワーを浴びて、再び秀寿司へ。「今日は地のものを食べてもらいますよ」ということで、マイカの活イカ(カツイカと呼ぶ活け作り)、フジツボなどを喰わせてもらう。酒はもちろん田酒の冷。さんざん呑んで喰って1万円いかないのは素晴らしい。〆はさくまあきらさんお勧めの「王味(わんみ)」 。ニンニクが素晴らしく効いている餃子をビールで堪能する。

 翌朝、ベッドで起きるまでのことは、覚えてはないが、「以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬」(p.211)。

(北東北の旅の最初はこちらから)

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Comments

あれって太宰のねぶただったのか…笑わして頂きました。
ナンシー関さんの実家にも行って欲しいところでしたねw。

しじみラーメン、美味そう…

Posted by: pinmama | August 12, 2005 at 09:26 AM

笑っていただけいて幸いです

太宰と気づいていただけませんでしたか…その直前にも、斜陽館って送ったのにぃw

しじみラーメンはマジうまいっす
喰いたい!

Posted by: pata | August 12, 2005 at 11:33 AM

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