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June 02, 2005

『抗争する人間〈ホモ・ポレミクス〉』

homo_polemics

 最初に読んだ本が本棚をつくってもらった混乱の中でなくなり、本に直接書き込んだメモやドックイヤーも失ってしまったのですが、やっぱり紹介したいので、再び購入して思い出しながら書きます。えー、ということで、生意気すぎるし非常に乱暴ではあるのですが、この本は「序章 社会に内在する暴力」と「第4章 文字と貨幣と国家」だけを読めばいいんじゃないと思います。

 序章ではクラストルの"Recherches d'anthropologie politique"(文化人類学的政治の研究)を下敷きに、ルソー、レヴィ=ストロースの系譜である"未開社会は平和な交換の社会である"というイメージを打ち壊します。ここが本書の価値の全て。というかPierre Clastresという人の言説を紹介してもらっただけでありがたい。まあ、密輸入みたいに悪口を言う人もいるかもしれないし、こんなわけのわからない書評する人もいるけど(実際に読んだかどうか疑問だね)、いろんなわからないことが整理された、という気がする。

 「暴力の可能性は未開社会のなかにあらかじめ刻印されている。戦争は未開社会の構造である」(ibid.,p.195)
「戦争は未開社会の基礎であり、その存在の生命そのものであり、その目的である。未開社会は戦争のための社会であり、基本的に戦争社会である」(ibid.,p.203)

 あたりの引用はしびれた。

 クラストルは原始的な「権力なき首長」の権力の分析を主に行っているらしいが、この権力が親族共同体の周辺に排除されているに対し、やや進んだ段階が共同体の中心に位置するようになった王。しかし、そこでもカネッティの『群衆と暴力』で描かれているように「はじめに彼は共同体の全員から、罵倒され、足蹴にされ、汚物をなげられ、などの暴力行為を受ける。これは王権がそもそも汚れていることを示すものであり、本来的には共同体の周辺的存在であり、またその故にいずれは聖なる力を持つことを予め示すものである」(p.13)という。

 今村先生はそこまで書いていないけど、内からもいったんは暴力的に排除された後に生まれる汚れた権力は、外部との暴力によるコミュニケーション(戦争)を行う場合に、共同体を効率的な組織に変えるのかな、と。

 この本ではいっさい触れられていなくて、それは暗黙の前提となっているのかもしれないけど、ずっと思っていたのは旧約聖書の士師記とサムエル記。ユダヤ人共同体はヨシュア(ご存じでしょうが、ギリシア語読みにするとイエス)によってカナンの地を平定するが、その後は外部の敵が現れるたびに士師と呼ばれる軍事的な指導者があらわれて、これを破るというパターンで対応してきた。しかし、周辺の民族が原始的な国家の形態をとるに至り、負け続ける戦争状態を打開するために、司祭に対して恒常的な王力を生むことを嘆願し、それでサムエルが立てられることになり、やがてダビデの王国につながっていく、というあたり。

 つまり、共同体内部の権力とは外部との戦争のために生み出され、それは汚れていたからこそ、逆に聖なるものとして反転し、やがて、恒常的なものとなっていく、みたいな。そうした流れが、もしかしたら勝手読みかもしれないけど、自分の中では整理された。

 えー、「第4章 文字と貨幣と国家」については後日。

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